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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 木村巌さん―奪われた 父も幼き妹も

木村巌(きむら・いわお)さん(79)=広島市安佐南区

学校行かず仕事の道へ。タクシー内 乗客に語る

 13歳で被爆した木村巌さん(79)は、タクシーの運転中、お客さんに体験を語っています。「今の広島の街からは想像できない悲劇があった。その事実を少しでも伝えたい」

 「あの日」、木村さんは爆心地から4・3キロの三菱重工業広島造船所(現広島市中区)にいました。労働力不足を補うための動員学徒として働いていました。作業開始の合図を待っている時でした。光と爆風(ばくふう)に襲(おそ)われ、とっさに頭を抱(かか)えました。作業場から出るときのこ雲が見えました。「家族は大丈夫(だいじょうぶ)か」。爆心地から1キロ余りの広瀬(ひろせ)北町(現中区)の自宅へ戻(もど)ろうとしたものの、火の熱気で近づけません。造船所へ戻り、防空壕(ごう)で眠(ねむ)れぬ夜を過ごしました。

 父母とは避難(ひなん)先の安佐(あさ)郡古市町(現安佐南区)の国民学校で数日後に会えました。父に大きなけがはありませんでした。母はやけどや顎(あご)の骨折で意識不明でした。当時、きょうだい7人のうち、兄(18)は戦地、2人は学童疎開(そかい)で広島県北部にいました。一緒(いっしょ)に暮らしていた姉(16)は爆心地近くで行方不明になり、妹(2)は自宅近くで亡くなりました。弟(6)も天満国民学校(現西区)で被爆。妹(4)は上半身を倒壊(とうかい)した自宅に挟(はさ)まれました。父は必死で助け出そうとしましたが、火が迫っていたため一緒にいた友人に引(ひ)き離(はな)され、助けることができませんでした。「父の気持ちを考えると切ない」。木村さんは父の死後、妹の最期の様子を知らされ、涙(なみだ)が止まりませんでした。

 父母との再会に安心したのもつかの間、被爆直後に市中心部で家族の消息を尋(たず)ね歩(ある)いた父は9月5日、放射線の影響(えいきょう)で体に斑点(はんてん)ができて髪(かみ)が抜(ぬ)け、亡くなりました。木村さんは、学校近くの河原で火葬(かそう)される父を見送りました。「これからどうやって生きていこう」。その場に立っているだけで精いっぱいでした。今も河原のそばを通ると、亡き父の無念さを思い念仏を唱えます。

 戦後、木村さんは、意識を取(と)り戻(もど)して動けるようになった母やきょうだいと親戚(しんせき)宅などに身を寄せた後、天満町(現西区)に建てた小屋で暮らします。翌年の春、弟の勇次さん(65)が誕生。両手のひらに入るほどの小さな赤ちゃんでした。発達に遅(おく)れがあった勇次さんは、後に母の胎内(たいない)で被爆した原爆小頭症(しょうとうしょう)※であることが分かりました。

 木村さんは母の負担を軽くしようと終戦後は学校に行かず、働き始めます。16歳になると「早く一人前になりたい」と家を出て、大阪でケーキやパイを作る職人になりました。

 広島に戻った木村さんは29歳でタクシー運転手になりました。体験を語り始めたのは30代後半。差別を恐(おそ)れたのに加え、娘を助けられなかった父の気持ちを思うと、長い間話せなかったのです。

 しかし、熱心に聴(き)いてくれるお客さんと接し、伝えたい気持ちが次第に強まりました。「原爆のことを話せるようになったのは運転手になったから。天職だと思うし、定めなのかもしれない」と考えます。車内では、勇次さんのことも話します。今はクリーニングの仕事をしていますが、面倒(めんどう)を見てきた母は85年、妹も2007年に亡くなりました。木村さんは、勇次さんの将来を心配しています。

 木村さんは原爆への恨(うら)みはないと言います。「でも、人類への実験だとしたら、ひどいことだと思うんです」。今の若者には「二度と無謀(むぼう)な戦争をしないよう努力してほしい。しっかり勉強して、平和への思いを強くして」と思いを託(たく)します。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ◆

原爆小頭症

胎内被爆 知能・体に障害

 米国が広島、長崎に落とした原爆で、母親のおなかの中で被爆した人たちがいます。生まれながらに障害がある「原爆小頭症患者(しょうとうしょうかんじゃ)」です。原爆小頭症は、妊娠(にんしん)初期の胎児(たいじ)が大量の放射線を浴びることで引き起こされます。頭囲が小さく、知能や身体に障害を伴(ともな)って生まれる場合があります。患者は「最も若い被爆者」と言われています。厚生労働省によると、原爆小頭症患者は3月末時点で全国に22人います。

 患者の存在が広く知られるようになったのは、被爆から20年もたってからです。患者の家族は当初、障害の原因についてABCC(現在の放射線影響(えいきょう)研究所)から「原爆のせいではなく、妊娠中の栄養失調によるものだ」と説明を受けていたそうです。

 作家やジャーナリストでつくる「広島研究の会」が「この世界の片隅(かたすみ)で」(岩波新書)を1965年に出版。放置されていた患者の存在を世に問いました。これがきっかけで、患者や家族でつくる「きのこ会」が発足しました。会の訴(うった)えもあって国は67年、小頭症は原爆によるものだと認めました。

 患者は、生まれながらに核(かく)の被害(ひがい)にさらされて生きてきました。偏見(へんけん)や差別を恐(おそ)れ、地域社会とのつながりが薄(うす)い面がある中、本人の老いや支えてきた肉親の死という問題に直面しています。国による支援(しえん)体制の強化が求められています。

◆私たち10代の感想◆

未来見据える強さ 感銘

 木村さんは「原爆を恨(うら)んでいない」と話していました。最初は信じられませんでした。被爆者の方はみんな原爆を憎(にく)んでいると決めつけていたからです。

 木村さんには原爆小頭症(しょうとうしょう)の弟がいます。原爆が原因で障害があるのに、原爆への怒(いか)りよりも、これからどう支えていくべきかを考えていました。

 被爆後、必死で生(い)き抜(ぬ)いてきた木村さん。「ここまで生きられたことに感謝している」と笑顔で話す姿が印象的でした。感謝の気持ちを大切にし、未来に向かって進む木村さんの考え方に強さを感じました。(中3・木村友美)

今の時代 恵まれている

 私と同じくらいの年齢(ねんれい)で父親を火葬したり、働いたりした木村さんはすごいです。今の日本は食べ物も十分にあり、戦争で家族が死ぬことも考えられません。この時代に生まれた私は恵(めぐ)まれていると感じます。

 次世代を担う私たちにできることは二度と戦争をしないことです。「あの日」のような悲惨(ひさん)な出来事を繰(く)り返(かえ)さず、みんなが平和に過ごせる社会をつくるためにできることを精いっぱいやりたいです。まずは周りの人とけんかせず、けんかしている人を見たら「やめようや」と声をかけたいです。(中1・重田奈穂)

◆編集部より

 2010年3月10日、木村巌さんと初めて会ったことをメモ帳に記しています。たまたま乗ったタクシーの車内。わずかな時間でしたが、木村さんから原爆小頭症の弟さんがいらっしゃることを聞き、強烈な印象を受けました。小頭症の問題は新聞やテレビでしか知らず、その時初めて、生まれながらに核の被害にさらされている患者の存在を身近に感じました。

 その後、縁あって原爆小頭症患者の問題を今も継続して取材しています。ことし5月にあった患者や家族、支援者でつくる「きのこ会」の会合で木村さんと再会。今回、木村さんからじっくりと話を聞くことができました。

 全国に22人いる患者の症状は十人十色と言われています。自分の障害が原爆に起因していることすら分からない患者もいます。何の罪もない胎児の時から未来を奪われた患者たちに接し、原爆に対して憤りを感じると同時に、核の恐ろしさを痛感しています。

 以前、「ひろしま国」のジュニアライターから「なぜ僕たちが被爆体験を継承しないといけないのか」と問われたことがあります。今回一緒に取材した中学生は、木村さんの体験を聞き、被爆から66年たった今も原爆の被害が続いていることを身をもって感じた、と話してくれました。原爆を歴史の一ページとしてではなく、身近な問題として捉え続けるー。答えの一つではないでしょうか。

 「ひろしま国」は未来志向の平和をテーマに取材しています。同時に、原点である原爆にもっと向き合う必要もあります。今回スタートした被爆者の体験を聞く企画を通し、被爆地広島に暮らす者としての役割を10代の皆さんと一緒に考えたいです。(増田)

(2011年11月15日朝刊掲載)

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