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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 増野幸子さん/児玉豊子さん―拭えぬ傷痕 背中に心に 

増野幸子(ますの・さちこ)さん(81)=広島市中区

児玉豊子(こだま・とよこ)さん(83)=三次市

戦時下 路面電車を運転。 支え合い避難所へ

 増野(旧姓小西)幸子さん(81)の背中には114もの傷痕(きずあと)があります。15歳の時に被爆。背中一面にガラスが突(つ)き刺(さ)さりました。右足の甲(こう)も大やけどした増野さんを励(はげ)ましながら、引きずるように避難(ひなん)所に連れて行ったのが、同じ広島県粟屋(あわや)村(現三次市粟屋町)出身で、いとこの児玉(旧姓雨田)豊子さん(83)でした。

 2人は、広島電鉄(広島市中区)が戦時中に設立した、広島電鉄家政女学校(じょがっこう)(広島市皆実(みなみ)町、現南区)の生徒でした。男性が徴兵されたためです。半日勉強し、半日は路面電車で運転手や車掌(しゃしょう)をする生活。終戦が近づくころには授業はなくなり、勤務ばかりの日でした。

 1945年8月6日午前8時15分。御幸橋(みゆきばし)の手前(現中区)で宇品方面に電車を走らせていた児玉さん。扉を開けた瞬間、電車から投げ出され、気づくと防空壕(ぼうくうごう)の中でした。頭からは血が流れていました。

 一方、5日深夜まで働き、6日も朝5時半から乗務の予定だった増野さん。突然(とつぜん)の激しい腹痛で、欠勤して寮(りょう)(現南区)で寝ていました。何かが頭に当たる衝撃で目覚めると、真っ黒いごみやほこりが立ち天井(てんじょう)がなくなっていました。寮近くの京橋川で右足のやけどを冷やしている時、背中を流れる大量の血に気づきました。

 学校の指示で宇品の神田神社(同)に逃(に)げる時に再会した2人。夕方、広電が避難所にしていた井口(いのくち)村(現西区)の広島実践(じっせん)高等女学校に向けて出発しました。熱い地面を素足のまま、背中と足の痛みを抱(かか)えて歩く増野さん。「死んでもいいから放っといて行って」と何度も座(すわ)り込(こ)むのを「何言いよるんね、頑張(がんば)らにゃ」と児玉さんが連れて行きました。

 増野さんは学校の講堂で、背中の痛みでうつぶせのまま横たわっていました。児玉さんは、9日に己斐(こい)-西天満町間で復旧した電車に、頭に包帯を巻いたまま乗務。講堂で亡くなった遺体を裏山の「焼き場」に運ぶ作業もやりました。

 けがも回復し、48年春から兵庫県姫路(ひめじ)市の紡績(ぼうせき)工場で働き始めた増野さん。寮での入浴中、背中の傷を見た人がひそひそ話すのが聞こえます。たずねられ「広島のピカドンに遭(あ)ったんよ」と言うと「毒が移る」と皆(みな)が浴室から出ていきました。「戦争さえ、原爆さえなければ」と悔(くや)しくて泣きました。

 今、福島第1原発の事故で、福島の人たちがいわれない差別を受けています。「責任はないのに」と拭(ぬぐ)えぬ傷を語ります。広島に暮らす若い世代へ、2人は「広島を支え、思いを継(つ)いでほしい」と願います。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ◆

広島電鉄家政女学校

授業・乗務 労働力補う

 広島電鉄(広島市中区)では戦時中、男性運転手、車掌(しゃしょう)が徴兵される中、労働力確保のため1943年4月に家政女学校を開校しました。校舎と寮は、広島市皆実(みなみ)町(現南区、ゆめタウン広島北側の一角)にありました。

 生徒は国民学校高等科の女子卒業生(14歳)が対象で、3年制。半日は授業、半日は勤務でした。しかし、終戦前は早朝から深夜まで運転手、車掌として勤務しました。

 「あの日」、在籍(ざいせき)していた約300人のうち、多くは乗務中か寮(爆心地(ばくしんち)から2・1キロ)にいました。29人と教師1人が犠牲(ぎせい)になりました。

 3日後に己斐(こい)-西天満町間で運転が再開された時も、軽傷の生徒が乗務しました。終戦で、男性の労働力を補う役割を終えて廃校(はいこう)になりました。被爆電車2台は、今も主に平日の朝、市内を走っています。

◆私たち10代の感想◆

戦時中の生活 ぞっと

 戦時中の生活は、今と全く違(ちが)っていました。戦争に勝つために、何でもする状態だったと思うとぞっとします。

 私は戦争はいけないと言われても少しピンとこないところがありました。しかし、話を聞いて、空襲(くうしゅう)におびえたり、防空壕(ぼうくうごう)に避難(ひなん)したりする体験は絶対したくない、と強く感じました。(中3・市村優佳)

親友助ける強い人に

 自分の命も危ないのに増野さんを助けた児玉さん。とてつもない勇気と覚悟(かくご)が必要だと思います。自分も、親友を助けられる心が強い人になりたいです。

 また以前、原爆が投下されて3日後から電車が走り始めた劇を見ました。その電車を運転していたのが児玉さんだと分かり、驚(おどろ)きました。(中2・河野新大)

◆編集部より

 10代半ばで路面電車の車掌や運転手をしていた増野さんと児玉さん。勤務について、「楽しかった」との返事が意外でした。車掌勤務の際、電気を取る「ポール」を手で動かす作業は大変でしたが、電車が離合する際、運転手である同級生と手を振り合ったり、「チンチン」と警笛を鳴らしたりするのが面白かったそうです。当時は車が少なかった上、電車が時速10キロ程度しか出なかったこともあり、運転もあまり難しくありませんでした。また、新聞を目にする機会も、ラジオを聞くこともなかった中、乗客から「呉が大空襲に遭うたそうな」「沖縄が玉砕したらしい」などさまざまな情報を聞くこともできたのです。

 勤務する中では「ロマンス」もあったとか。若い男女が並んで道を歩くのもはばかられた当時、増野さんは、県立工業学校の学生さんに誘われ、八丁堀に映画を見に行きました。とはいえ、映画を見終わると、出口で「またね!」と言葉を交わして別れました。背中と右足の傷も癒えた1945年11月ごろ、家政女学校に戻ろうと広島電鉄に出向いた増野さん。女学校は廃校になっていましたが、宮島線の車掌としてしばらく働きました。車掌をしている電車に彼が乗ってきて、おしゃべりするのが楽しみでした。手を握ることもなかった2人。彼とは今も年賀状をやり取りしているそうです。児玉さんに思いを寄せる軍医さんもいて、増野さんに、児玉さんの乗務スケジュールを聞きに来た、とのこと。軍医さんは8月5日に「戦地に行く」と言っていたそうで、児玉さんは「今どうしておられるのか、調べたいような、そのままにしておきたいような…」と笑っていました。

 児玉さんを「命の恩人」と言う増野さん。今も、児玉さんが増野さんの家に泊まりに行ったり、一緒に泊まりがけで出掛けたりする仲良しの2人です。(二井)

(2011年11月28日朝刊掲載)

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