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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 鳥越不二夫さん―忘れたい過去 残す喉元

鳥越不二夫(とりこし・ふじお)さん(80)=広島県府中町

熱風浴び重体に。 亡母思いハーモニカ吹く

 入浴前に服を脱(ぬ)ぐと、鏡に映る喉元(のどもと)のケロイドの痕(あと)。鳥越不二夫さん(80)をいや応なく「あの日」に連(つ)れ戻(もど)します。「80にもなるんだから、もう忘れてしまいたいのに…」。複雑な気持ちにさせるのです。

 広島市西部の山手町(現西区)で生まれ育った鳥越さん。家は山(やま)裾(すそ)の小高い所で、市街地が一望できました。

 1945年8月6日の朝、14歳(さい)だった鳥越さんは、学徒動員を休み、健康診断(しんだん)の再検査のため家で病院に行く準備をしていました。

 米軍の飛行機音を聞き、外に出て市街地がある東の空を眺(なが)めていた時でした。空に黒っぽい塊(かたまり)が見えた瞬間(しゅんかん)、ものすごい閃光(せんこう)が目に突(つ)き刺(さ)さりました。同時に、炎(ほのお)のような熱風が顔を襲(おそ)いました。「ザーッ」というごう音とともに風が押(お)し寄(よ)せ、7、8メートル先の防火水(すい)槽(そう)まで飛ばされました。

 Vネックの半袖シャツに長ズボン姿だった中、露出(ろしゅつ)していた顔と両腕(りょううで)がひりひりするのに気づきました。家にいて無傷だった母が駆(か)け付(つ)け、庭の防空壕(ごう)に運んでくれました。

 意識がもうろうとする中、顔が腫(は)れて前が見えなくなりました。午後、近所の人が廿日(はつか)市(いち)の病院に連れて行ってくれ、顔中に包帯を巻いて帰宅しました。

 7日以降、意識不明になり、高熱と出血が続きました。数日後、包帯の隙間(すきま)から明かりを感じ、母が歌う子守歌が聞こえました。意識が戻ったのです。しかし、顔が腫れ上がって口が開けません。食べ物は母がかみ砕(くだ)き、麦の茎(くき)の「ストロー」で入れてくれました。

 10月、母の実家に近い岩国の国立病院に入院。翌春に退院し、そのまま地元の中学校に転入しました。やけどで赤黒くなっていた顔を見た同級生に「赤面(あかめん)じゃ。おかしいのう」といじめられました。

 兄が大学や高校で教(きょう)壇(だん)に立っていたこともあり、52年春、小学校の先生に。ただ、水泳の授業でも、ケロイドの痕が出ないよう、丸首のシャツを着続けました。

 国立病院での入院中、母にハーモニカをもらいました。「意識が戻った時に母が歌っていた子守歌を吹(ふ)きたい」と91年に退職した後、本格的にハーモニカ演奏を始めました。今は自宅で教室を開いているほか、中国地方各地のコンサートに出演しています。「呼吸できることが幸せ。生きていることに感謝しています。子どもたちにも感謝の気持ちを持って生活してほしい」。愛情を注いでくれた母を思いながら、今日もハーモニカを吹きます。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ◆

学徒動員

授業が消え毎日作業

 戦時中、特に末期、10代の子どもたちは毎日、軍需(ぐんじゅ)工場に駆(か)り出(だ)されたほか、建物を壊(こわ)したがれきの片付け作業をしました。「学徒動員」です。授業はなくなりました。

 学徒動員は、今の中学生以上が対象です。1941年8月、文部省の命令で、集団での勤労作業に動員されることになりました。戦争が激しくなるに連れて勤労期間が長くなり、44年3月には年間を通して勤労することになったのです。

 広島でも、上級生から順に軍需工場に行って船や飛行機の部品を造ったり、学校で軍服を縫(ぬ)ったりするようになりました。同年11月以降、空襲(くうしゅう)で火災が広がるのを防ぐために家を壊して空間をつくる「建物疎開(そかい)」にも携(たずさ)わりました。

 原爆資料館(広島市中区)が2004年に開いた企画展によると、原爆で動員学徒約2万6800人中、約7200人が亡くなりました。うち約5900人は建物疎開の作業中でした。爆心地に近い場所だったのです。

◆私たち10代の感想◆

核の怖さ 再認識した

 今も体に残るケロイドの痕(あと)や、大やけどした体の絵を見せてもらい、あまりのひどさに途(と)中(ちゅう)からつらくなりました。また、原爆がさく裂(れつ)した瞬間(しゅんかん)を「きれいなオレンジ色の空」と聞いて、はっきり想像でき、核(かく)の恐(きょう)怖(ふ)をあらためて感じました。核廃絶(はいぜつ)は必ず実現させないといけません。(中2・井口雄司)

未来への責任 我々に

 「戦争は人間が起こしている。犬や猫(ねこ)は起こさない」という言葉が心に残っています。今の子どもたちが、いつか大人になって世の中を決めていきます。これからの未来をどうしていくのか、自分たちの手に委(ゆだ)ねられているんだなと、責任を感じます。(中2・高矢麗瑚)

◆編集部より

 岩国の国立病院で「20歳まで生きられればいいだろう」と言われた鳥越さん。小学校の先生になってからも、喉元のケロイド手術を2回受け、白血球減少症という後遺症と闘いながら勤務を続けました。「いつ死んでも仕方ない」と思っていましたが、40歳になった時「ここまで生きたんだから、この命を何とか持ちこたえさせたい」とジョギングを始めました。40歳以上を対象とする、マスターズの全国大会にまで出場するほどになり、800メートルでは50歳代の日本新記録を達成しました。60代で100メートルを12、7秒で走っていた俊足です。

 3年前に骨髄異形性症候群という難病にかかり、2年前には腎臓の手術も受けました。しかし、「自分の心が輝くことが大事。挑戦し続け、笑顔で自分を磨きたい」と、今もハーモニカの演奏、指導、そしてスキーやゴルフを楽しんでいます。(二井)

(2011年12月26日朝刊掲載)

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