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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 西村一則さん―救ってくれた友亡くす

西村一則(にしむら・かずのり)さん(80)=広島県府中町

「生き残ってしもうた」。だから平和訴える

 鶴見(つるみ)橋の東詰め近く(爆心地から約1・7キロ、現広島市南区)で被爆した西村一則さん(80)を背負って逃(に)げてくれたのは、同じ場所で被爆した同級生でした。翌年の春、学校へ行くと、その同級生が他界していたのを知りました。「わしを助けるために死んだ。すまんことをした」。自責の念に駆(か)られながら、平和を守るよう後世に訴(うった)えるのが自分の役目、と考えて生き抜いてきたのです。

 中学1年(12歳)だった西村さんは8月6日朝、建物疎開(そかい)作業のため、広島駅前から同級生約20人で田中町(現中区)方面に向かって、路面電車の比治山線沿いを歩いていました。鶴見橋の少し手前に来た時、米軍のB29が急降下するような音が聞こえました。その瞬間(しゅんかん)、意識を失い、気が付くと、がれきに埋(う)もれていました。

 左足が木に挟(はさ)まれて動けません。「助けてくれえ」。周りの人は皆(みな)、目の前を通り過ぎて逃げていきます。

 火がすぐ近くまできて、熱くなりました。「わしゃあ駄目じゃ。この火で焼け死んでしまうんだ」。その時、「おい、頑張(がんば)れ」と兵隊ががれきをどけてくれたのです。

 自由の身になったものの、右半身のやけどと左足の股(こ)関節が外れて歩けません。あおむけになっていたら、「おい、西村」と声がしました。見ると、顔の皮膚(ひふ)がぶらさがって、ぐちゃぐちゃになった人が立っていました。「誰(だれ)や」「柳田(やなぎだ)よ」。同級生、しかも一番の親友だったのです。「わしが負うちゃろう」と西村さんを背負い、一歩一歩ゆっくり歩いて逃げました。

 途中(とちゅう)で、別の同級生の西久保君も合流。3人で4、5時間かけて大内越峠(現東区)を越え、温品(同)にたどり着きました。

 やっと落ち着いた時、畑に真っ赤なトマトがあるのが目に入りました。失敬して3人で食べようとしました。しかし、「わしはトマトが食えん。何も食えん。死ぬるんかのう」と柳田君。彼の口は、垂れ下がった頬や唇の皮でふさがれていたのです。

 その日は、広島市の郊外にあった西久保君の家に宿泊(しゅくはく)。翌日、汽車で広島県小谷村(現東広島市高屋町)の自宅に戻(もど)りました。

 右半身のやけどが治まった翌年春、つえをつきながら登校。一緒に逃げた2人が死んだと知りました。その年の8月には、父保清(やすきよ)さんも髪(かみ)の毛が抜けるなどして死亡。父は原爆投下後、西村さんを捜(さが)して広島市内を歩き回っていました。「わしを助けようとした人が皆死んで、わしだけ生き残ってしもうた」

 米国に対し、「人体実験したのが許せない」と憤る西村さん。子どもたちには、言葉や文化、考え方の違(ちが)いを理解し、話し合いによって問題を解決してほしい、と願っています。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ◆

鶴見橋

多くの被爆者が避難

 広島市の平和大通りの東端(とうたん)、京橋川に架(か)かっているのが鶴見(つるみ)橋です。爆心地からは約1・7キロ。中区鶴見町と南区比治山本町を結んでいます。

 木造の橋が架けられたのは1880年。広島に原爆が落とされた当時、橋の西側では、広島女子商業学校や県立広島第一中学校など12校の1936人が、建物疎開(そかい)作業に動員されていました(原爆資料館の2004年企画展から)。

 尾長(おなが)や矢賀、荒神(こうじん)、段原などの地域や、東洋工業(現マツダ)などの会社でつくる「義勇隊」も来ていました(広島県戦災史から)。

 原爆の熱線で、橋の欄干(らんかん)などに着火。しかし、すぐに消し止められ、多くの被爆者が、この橋を渡(わた)って比治山などに避難(ひなん)しました。

 橋の東詰めには、大きなシダレヤナギがあります。原爆を受けても耐(た)えて生き続けていましたが、樹齢(じゅれい)100年を超(こ)えた2007年9月、枯死(こし)が確認されました。今は、同じ根から被爆後に生えた幹が青く茂(しげ)っています。

◆私たち10代の感想◆

生きているからこそ

 西村さんは「苦しいのも痛いのも生きている証し。生きているから感じられる。死んだら何も感じられんけえね」と話していました。

 私は、嫌(いや)なことがあると、すぐ愚痴(ぐち)をこぼしてしまいます。これからは、嫌なことも生きているからこそ感じられるんだ、と感謝していきたいです。(小6・藤井志穂)

相手を思う行動 大切

 あの日、畑にあったトマトを食べられなかった柳田さん。あの時、どれほどつらかったんだろうと思いました。また、その時の西村さんの気持ちを考えると泣きそうになりました。柳田さんを尊敬すると同時に、相手を思って行動する、というのは、生きていく上でとても大切な事だと感じました。(中2・谷岡南実)

◆編集部より

 親友の柳田さんに助けられた西村さん。柳田さんはふうふう言いながらも西村さんを背負って避難してくれました。その柳田さんの死を聞いた西村さん。「ワシの命を助けるために死んでしまった。すまんことをした」と悔やんでいました。

 今でもトマトを見るたびに、あの日、トマトが食べられなくて「ワシは死ぬるんかのう」と、細い目からぽろぽろ涙を流した柳田さんの顔が浮かぶそうです。

 「今の平和憲法ができた時、日本国民皆が『二度と戦争はしない、そのため軍隊も兵器も要らない』と誓ったはず。憲法9条を守ってほしい」と強調する西村さん。尋常小学校に入学して「すすめ、すすめ、へいたいさん」と習って兵隊に憧れ、「日本は神様の国」と信じて疑わないような教えを受けてきたからこそ、平和教育の重要性を実感しています。(二井)

(2013年7月23日朝刊掲載)

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