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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 河原謹吾さん―貨物に負傷者乗せ北へ

河原謹吾(かわはら・きんご)さん(87)=安芸高田市向原町

自らも被爆。病気や差別乗り越え先生に

 国鉄で列車の車掌(しゃしょう)をしていた河原謹吾さんは、被爆した直後、けが人を貨物列車に乗せ、芸備線で備後十日市駅(現三次駅、三次市)を目指しました。自分自身も後頭部や背中(せなか)をやけどしていましたが、けが人を励(はげ)ましながら、機関士とともに列車を走らせました。

 1945年8月6日、19歳だった河原さんは、貨物列車に乗務するため、広島駅(現広島市南区)の東側にあった操車場(そうしゃじょう)へ向かって歩いていました。突然(とつぜん)、背後から白い光を感じ、爆風(ばくふう)で吹(ふ)き飛(と)ばされました。しばらくして顔を上げると、辺りは砂(すな)ぼこりで真っ暗でした。爆心地から約2・1キロの辺りです。

 それでも、操車場へと急ぎました。無事だった機関士らと話し合い、貨物列車を動かすことにしました。河原さんは、芸備線の次の駅、矢賀駅(現東区)まで歩いて線路に異常(いじょう)がないか確認(かくにん)しました。

 矢賀駅に着いた後、やけどの手当てを受けようと近くの矢賀国民学校(現矢賀小、東区)に行くと、皮膚(ひふ)が垂(た)れ下がるなど大やけどをした人がたくさんいました。「自分のような(軽い)やけどでは薬を付けてくれとは言えない」と諦(あきら)めました。

 河原さんたちは、貨物列車を5、6回止めて、線路(せんろ)沿いにいた負傷(ふしょう)者を貨車に乗せ、北へと走らせました。はっきり数えてはいませんが、100人前後だったと記憶しています。各駅には、身内や知人の安否(あんぴ)を気遣(きづか)う人たちが詰(つ)め掛(か)けていました。

 備後十日市駅まで行き、広島県向原町(現安芸高田市)の自宅(じたく)に戻(もど)りました。髪(かみ)が抜(ぬ)けるという放射線の急性症状(しょうじょう)が出ました。やけどは10年余り痕(あと)が残りました。

 いわれなき差別にも苦しめられました。見合いで、「放射能がうつる」と断られたのです。「被爆者であることから逃(に)げたい」「思い出したくない」と考えることもたびたびありました。

 戦後は車掌の仕事を辞め、昔からの夢だった小学校の先生になりました。広島県甲田町(現安芸高田市)の小田東小の校長を最後に87年に退職しました。その後、向原町議を務め、ことし3月までは、安佐北区で幼稚園(ようちえん)の園長をしていました。

 今は妻と2人暮らし。7人の孫と2人のひ孫にも恵(めぐ)まれました。「子どもたちに二度と同じ思いをさせたくない。戦争がいかに無意味だったかを理解し、後世に伝えていってほしい」と願っています。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ◆

広島駅

コンクリの駅舎全焼

 広島駅(現広島市南区)は爆心地から約2キロの地点にあり、原爆投下で大きな被害(ひがい)を受けました。日本で初めてコンクリートで造られた駅舎は天井(てんじょう)が抜(ぬ)け落ち、全焼しました。利用者の増加に伴(ともな)って建て増しされていた木造の待合室も倒壊(とうかい)し、焼けました。焼(や)け跡(あと)からは、78人の遺体(いたい)が見つかったとされています。

 原爆投下の翌日(よくじつ)には、軍用線として使われていた宇品線(廃線(はいせん))が全線復旧するなど各線は徐々(じょじょ)に復旧しました。列車は、原爆でけがをした人たちを運ぶ救援(きゅうえん)列車としても、重要な役割(やくわり)を果たしました。

 実は、被爆直後から被害の少なかった周辺の駅などで列車の折り返し運転が行われました。芸備線では、被爆当日の8月6日、広島から備後十日市駅(現三次駅、三次市)へ負傷者を乗せて走った貨物列車とは別に、備後十日市駅を出発した救援列車が、広島駅の一つ手前の矢賀駅(現広島市東区)で被災(ひさい)者を乗せて折り返し運転したという国鉄勤務者の手記が残っています。

◆私たち10代の感想◆

他人を気遣う 大切さ

 河原さんは、手当てを受けようとした学校で、大けがをした人たちを見て、「自分くらいのやけどでは薬を塗(ぬ)ってくれとは言えない」と思ったそうです。他人を気遣(きづか)う行為は、平和へとつながります。日ごろから相手の気持ちをよく考えるようにすれば、いじめや戦争のない世界を築けるはずです。(中3・谷口信乃)

原爆の悲劇 心に刻む

 「戦争は人の心を奪(うば)ってしまう」と河原さん。被爆後、たくさんの死体が焼かれたり、川に浮(う)かんでいたりしたのを見ても、感情が湧(わ)かなかったそうです。人の死が当たり前になってしまう戦争はあってはいけません。戦争や原爆の悲劇(ひげき)を二度と繰(く)り返(かえ)してほしくない、という河原さんの願いを忘(わす)れません。(高2・寺西紗綾)

◆編集部より

 河原さんは、被爆翌日の8月7日だけ車掌の仕事を休み、8日から再び働き始めました。そして、仕事の合間を縫って、毎日のように親戚らを捜すため広島の街を歩きました。その時の光景は、地獄そのものだったそうです。

 川に浮かぶ死体、防火水槽に頭を突っ込んだまま亡くなった人、水を求める人…。壊れた建物の底の方からは「助けて」という声も聞こえました。しかし、どうすることもできず、泣きながら手を合わせるしかなかったのです。

 列車でも、たくさんの負傷者を運びました。忘れられないのは、やけどを負った重傷の男性が、目的の駅に着く前に亡くなったこと。「頑張りなさい、もうすぐ駅に着きますよ」と話しかけて間もなく、息絶えたそうです。

 河原さんは当時を思い出すと胸が苦しくなり、生かされていることに感謝するそうです。(増田)

(2013年8月26日朝刊掲載)

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