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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 佐々木美代子さん―捜しに来た父 命尽きる

佐々木美代子(ささき・みよこ)さん(84)=広島市南区

絶望と脱力感。でも「頑張らんといけん」

 大好きだった父逸治(いつじ)さんを原爆に奪(うば)われた佐々木(旧姓足立)美代子さん(84)。悲しくて悔(くや)しくて…。当時を思い出すと、今も涙(なみだ)が出ます。そして、その思いは「原爆を運んだB29を造った会社(米ボーイング社)の飛行機には乗らん」との気持ちにつながっているのです。

 父は当時、大阪にあった陸軍中部軍司令部で主計(会計)を担当していました。8月5日に広島に戻り、6日は佐々木さんたちが広島市千田町(現中区)の自宅から広島県高陽町上深川(現安佐北区)に疎開(そかい)する手続きのため、市役所に向かっていました。

 佐々木さんは、宇品町(現南区)にあった広島女子専門学校(女専、爆心地から約3・3キロ)の1年生(16歳)でした。学校の講堂で校長の訓話を聞き終え、講堂を出ようとしていた時です。フラッシュのような光を感じ、天井(てんじょう)のシャンデリアが落ちてきました。幸い、佐々木さん含め多くの生徒は無事でした。

 市中心部から逃(に)げてくる負傷者を戸板に乗せて運んでいると、「お父さんが来とってよ」と言われました。正門の方へ行くと、ほぼ全身を大やけどした父がいました。わが身を顧みることなく、まな娘を捜(さが)しに来たのです。

 父を畳敷(たたみじ)きの「作法室」に寝(ね)かせたものの、やけどがひどく、タオルをぬらして冷やすことさえできません。ノートなどであおぐのが精いっぱい。父の肌(はだ)は、アスファルトのように黒く凸凹(でこぼこ)になりました。8日ごろからはうじが湧(わ)き出し、佐々木さんが半分に折った箸(はし)で取りました。

 7日には疎開先の上深川に歩いて戻り、弟の成城(せいじょう)さん(7)らに状況を伝えました。「父危篤(きとく)」と、もう1人の弟良成(よしなり)さん(10)を、学童疎開していた県北の大朝町(現北広島町)へも迎(むか)えに行きました。

 家族の名前を呼んだり、「きれいな景色が見える」と言ったりしながら、父は14日に亡くなりました。

 佐々木さんを筆頭にきょうだい4人と母が残されました。千田町の家も全焼。絶望と脱力(だつりょく)感の一方、千田町で被爆した母の、左の首筋のやけどを見るたびに、「頑張(がんば)らんといけん」と言い聞かせていました。米国が憎くて「こんちくしょう」と思いながら暮らしたそうです。

 1948年春に女専を卒業し、同年秋に結婚。義父が購入(こうにゅう)した南段原町(現南区)の屋敷(やしき)で、50年に料亭「ささき別荘(べっそう)」を始めました。2004年に閉店するまで、おかみとして過ごした多忙(たぼう)な日々。周囲に被爆体験を語ることはありませんでした。「(64歳の)息子には知っておいてもらわにゃあいけん」。最近、考えるようになっています。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ

広島女子専門学校

火災を免れ救護所に

 広島女子専門学校(女専、現県立広島大、広島市南区)は、尋常(じんじょう)小学校(6年)と高等女学校(4、5年)を終えた女子が進学する学校として、1928年に開校しました。

 広島原爆戦災誌によると、原爆が落とされた6日は、1年生約160人と、病弱などで動員されなかった2、3年生約20人がいました。また、暁部隊(あかつきぶたい)(陸軍船舶司令部(りくぐんせんぱくしれいぶ))の兵士約60人も、宇品港での乗船を待って宿泊(しゅくはく)していました。

 爆心地から約3・3キロにあり、学校にいた人は、けがはしましたが、亡くなった人はいませんでした。東千田町(現中区)の寄宿舎で病気のため休んでいた2人が死亡。登校途中(とちゅう)などの6人が行方不明となり、死亡と判断されました。

 講堂は全壊(ぜんかい)。木造校舎も窓が割れたり傾いたりしたものの、火災は免(まぬが)れました。そのため校舎は、応急救護所として使われました。

 焼け野原となった市内は、大学や高等師範(しはん)学校がなくなったため、戦後約2年間、広島の文化の中心的な役割を担いました。

◆私たち10代の感想

志を持って努力する

 父を亡くした佐々木さんは「どうやって生きよう」と考えると同時に「母を助けないといけない」と思いました。どんなにつらくても、目標を持って前向きに生きていかなければならなかったのです。

 私たちも、何事もすぐには諦(あきら)めず、志を持って努力しないといけません。(中1・岡田実優)

家族を大切にしたい

 大切な人が目の前で苦しんでいるのに助けてあげられないことが、どんなに悲しくて悔(くや)しいものかが痛いほど伝わってきました。

 「両親を大切に」と話していた佐々木さん。言われたことに腹が立って母や祖母に反論している自分自身の態度を改め、いてくれるだけで感謝しようと考えました。(中2・見崎麻梨菜)

◆編集部より

 戦時中、佐々木(旧姓足立)美代子さんたちの間では、写真館で写真を撮ることが楽しみでした。中町(現中区)にあった県立広島第一高等女学校から、休憩時間に同級生と走って本通近くの写真館へ行って、撮影していました。小遣いで撮れる金額だったようです。15歳の時の写真も、写真館で撮った1枚です。ちなみに、1、2年生はおかっぱ、3年生は前髪を分ける、4年生は髪を結ぶ、と髪型が決まっていたそうです。

 また、佐々木さんの父逸治さんは、国内外の任地から毎日、母良子さんに手紙を寄せていました。軍隊の中でも有名だったのでしょう、いつしか「大日本帝国 足立良子様」と宛名を書いただけで、自宅に届くようになっていました。手紙の最後に「愛する良子へ」と書いてあったのを見て、美代子さんは3歳下の妹玲子さんと「え~っ!」と言っていたそうです。原爆投下時、学徒動員として川内村(現安佐南区)にいた玲子さんも、広島女子専門学校に駆けつけ、一緒に父を看病しました。(二井)

(2013年9月10日朝刊掲載)

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