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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 原田カ子コさん―同僚前になすすべなく

原田カ子コ(はらだ・かねこ)さん(86)=広島市安佐北区

1ヵ月間 意識もうろう「真っ黒い、海の底」

 原田(旧姓迫田)カ子コさん(86)は、被爆した広島市東胡(ひがしえびす)町(現中区、爆心地から約1キロ)辺(あた)りから逃(に)げる途中(とちゅう)、広島駅前の猿猴(えんこう)橋(現南区)で「さこちゃーん」と声を掛(か)けられました。その人は目だけが光っていて、顔は真っ黒焦(こ)げ。同じ職場の女性事務員だと分かり、一緒(いっしょ)に逃げようと手を引っ張ると、ずるっと皮膚(ひふ)がむけました。「どうしようもなかったよね」。今も、その光景が脳裏に焼き付いています。

 当時18歳だった原田さんは東胡町辺りにあった洋服店の工場で軍服を縫(ぬ)う仕事をしていました。あの朝、警戒(けいかい)警報が解除され、暑かったので、もんぺを脱(ぬ)いでミシン作業を始めようとしていた時でした。ピカッと光った瞬間(しゅんかん)、ガラス張りの天井(てんじょう)が落ちてくると同時に真っ暗になりました。土壁の臭(にお)いが臭(くさ)かったのを覚えています。

 どのくらいたったでしょうか、すーっと明るくなり、家の裏にあった防空壕(ぼうくうごう)辺りから外に出ることができました。体はガラスによる傷で血だらけ。どこが道か分からないほどのがれきの中、まず福屋百貨店(現中区)の方へ行きましたが、福屋から火が出たので、反対側の広島駅方面へ逃げました。

 猿猴橋で出会った女性事務員は、母親がいる横川(現西区)へ行こうとしたので、そのまま別れました。後日、女性は海田(現広島県海田町)で亡くなったと聞きました。

 自宅の飯室(いむろ)(現安佐北区)に戻ろうと、はだしで歩き続けた原田さん。福田(現東区)辺りでトラックに乗せてもらい可部駅(現安佐北区)へ。そこからは可部線(現在は廃止)の貨物列車に乗せてもらい、家に着くと午後9時を過ぎていました。

 8月中は、家族のご飯を炊(た)き、ドクダミを煎(せん)じて飲むのが日課でした。じきに紫色(むらさきいろ)の斑点(はんてん)が体中に出て、髪(かみ)をとくたび、ごそっと抜(ぬ)けるようになりました。そして9月1日、ついに動けなくなりました。大八車で病院に連れて行かれ、両手両足に注射を打たれましたが、帰宅後、42度もの高熱が出て意識がなくなりました。

 夜中にいったん目を開けたものの、それから約1カ月間、意識のもうろうとした日が続きました。「真っ黒い、海の底へ落ちて行くような」状態に何度もなりました。「地獄(じごく)じゃったんかねえ」と振(ふ)り返(かえ)ります。途中、どす黒い血のようなものも大量に吐(は)きました。「あれで毒が出たんかもしれん」。ようやく仕事に復帰したのは1年半後でした。

 「やねこい(しんどい)思いをした。戦争がないようにせにゃあいけん」。原田さんの強い願いです。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ

猿猴橋

金属不足で装飾供出

 猿猴(えんこう)橋(広島市南区)は、広島駅南口前の駅前大橋の南東にあり、猿猴川に架(か)かっています。1926年2月に完成しました。

 当時、橋の欄干(らんかん)の端(はし)にある「親柱(おやばしら)」には、地球儀(ちきゅうぎ)の上にワシが羽を広げたブロンズ像や照明灯がありました。

 欄干には、橋の名前にちなんで、2匹の猿(さる)が1個の桃(もも)をつかんだ金属の飾(かざ)りもありました。その美しさから、「広島一の橋」と呼ばれていたそうです。

 しかし戦時中、金属資源が不足したため、41年に金属類回収令が発令。これに伴(ともな)い、ワシのブロンズ像や猿と桃の欄干など金属装飾(そうしょく)が供出(きょうしゅつ)されました。親柱の上や欄干は新たに石で造られました。

 爆心地から約1・8キロの位置にあり、原爆では欄干の一部が壊(こわ)れた程度だったため、多くの被爆者が、この橋を通って避難(ひなん)しました。

 今では、広島市内にある公共管理の橋約2900のうちで最も古くなっています。今後、橋の南詰(づ)めに、金属装飾を復元した親柱のモニュメントが設置される予定です。

◆私たち10代の感想

核兵器廃絶を実現へ

 原田さんは、原爆投下直後の広島の街の様子を「真っ黒で道路がつぶれとる」と話します。初めは言葉の意味が分かりませんでした。話を聞くうち、焼け野原になった様子と被害(ひがい)の大きさを知りました。「戦争はあっちゃいけん、地獄(じごく)よ」と原田さんが言うように、戦争ゼロ、核兵器廃絶(かくへいきはいぜつ)を実現させたいです。(中3・中野萌)

死の恐ろしさを痛感

 原田さんが気を失って生死をさまよっていた時、「真っ黒な海の底へ落ちていくような気分」だったそうです。僕(ぼく)は、これまで死について関心がなかったので、死ぬことの恐(おそ)ろしさを考えさせられました。

 たくさんの人に恐怖(きょうふ)を与(あた)えた戦争、原爆は絶対になくすべきだと思います。(中3・中原維新)

◆編集部より

 原田さんが意識不明となった時、近所の人たちが集まって通夜をしたそうです。その晩、目覚めた原田さんに、周りの人たちはびっくりしました。

 原田さんが意識朦朧としている中、大八車に原田さんを乗せては、でこぼこ道を病院に連れて行ってくれた母と兄嫁。また、食べるものがない中、母は山中でリンゴ栽培している農家を訪ねてリンゴを分けてもらって原田さんに食べさせました。

 被爆したとき一緒に働いていた同僚たちは次々と亡くなりました。原田さんも急性の放射線障害が出ましたが生き延びました。「業(宿命)があるんでしょう」と言います。「90まで生かせてもらえれば」と話していました。(二井)

(2013年10月14日朝刊掲載)

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