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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 美甘進示さん―戦争で家族や家を失う

美甘進示(みかも・しんじ)さん(87)=広島市東区

友人宅などを転々。電気技術生かし起業

 「得信(とくしん)十年失信(しっしん)一件」。美甘進示さん(87)の座右の銘(めい)です。原爆や戦争で、家族も家も何もかも失った時、この言葉を思いました。信用を得るには10年かかるが、失うのは一瞬(いっしゅん)―。心に刻んで生きてきたのです。

 当時19歳。第一国民学校(現段原中、広島市南区)を卒業後、広島陸軍(りくぐん)兵器補給廠(へいきほきゅうしょう)(現南区)で働きながら学び、第二総軍総司令部で勤務していました。

 「あの時」、建物疎開で上柳町(現中区上幟町、爆心地から約1・2キロ)の自宅を明(あ)け渡(わた)すのに、移転先で使う瓦(かわら)を取ろうと屋根に上がっていました。

 突然(とつぜん)、太陽の3倍もの大きさの黄色い火の玉が目に飛(と)び込(こ)んできました。同時に、熱湯をかけられたような熱さ。そして次の瞬間(しゅんかん)、隣(となり)の家の庭に飛ばされ、自宅の下敷(したじ)きになりました。父福一さんに引っ張り出された時にはズボンに火が付いたままで右ももを大やけど。背中、両手、右腕(みぎうで)、顔にもやけどやけがをしました。

 栄橋(現中区)まで逃(に)げ、その夜は泉邸(現縮景園(しゅっけいえん)、中区)そばの川辺で明かしました。翌日、広島駅北側の東練兵場へ。炎天下(えんてんか)に約3時間も並んで治療(ちりょう)を受けました。東照宮(現東区)や自宅跡(あと)近くで過ごして9日、救護所になっていた府中国民学校(現府中小、広島県府中町)へ行きました。11日には、軍の先輩(せんぱい)が美甘さんを捜(さが)しに来ました。軍関係の施設(しせつ)に行くことになり、父とはここで別れました。

 金輪島(現南区)や小屋浦(こやうら)国民学校(現小屋浦小、広島県坂町)、広島第一陸軍病院宇品分院(現南区)などを転々としました。被爆から約1カ月後には、髪(かみ)が抜(ぬ)けて発熱、下痢(げり)、そして白血球の数も10分の1に。しかし、注射がきっかけで好転しました。

 陸軍病院を10月20日に退院後、父を捜しましたが見つかりません。今も行方不明のままです。病気療養(りょうよう)のため岡山県加茂町(現津山市)の親戚(しんせき)宅に身を寄せていた母なみさんは9月に死亡。3歳上の兄隆示(たかじ)さんはフィリピンの戦地へ赴(おもむ)いていましたが、46年に死亡通知が来ました。

 全てを失った美甘さん。軍の後輩や友人の家を渡り歩(ある)きました。やがて、兵器補給廠で学んだ電気技術を生かして、ラジオの修理を始めて起業します。第一産業(現エディオン)の創業者、久保道正さんからも仕事を受け、コツコツと信用と実績を重ねました。今も変圧器の製造をしています。

 被爆60年には、被爆直後に助けられたお礼に、小屋浦小に本を贈りました。「生かされている。命ある限りは世の中に尽(つ)くす」。若い人には「戦争反対主義者」になってほしい、と願っています。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ

広島市立第一国民学校

増築し戦後も教室に

 今の段原中(広島市南区)は戦時中、広島市立第一国民学校と呼ばれていました。現在の小学校にあたる国民学校初等科(6年)を終えた子どもが、2年間通っていました。

 学校は1932年、現在地より約600メートル北の段原山崎町に、市立第一高等小学校として設立。軍事主義教育の色合いが濃(こ)い「国民学校令」の施行(せこう)により、41年、第一国民学校と改名されました。

 原爆の爆心地からは約2・6キロに位置していました。爆風(ばくふう)で木造の北校舎は倒壊(とうかい)。講堂や西、東の両校舎は窓枠や窓ガラスが壊(こわ)れました。被爆後、東校舎と講堂は臨時救護所になりました。

 生徒約650人は動員されていて、ほとんど学校にいませんでした。昭和町(現中区)で建物疎開(そかい)作業をしていた約150人のうち約50人が被爆死したとされています。

 鉄筋平屋だった東校舎は戦後、2階を増築。2011年4月に段原中が現在地に移転するまで、技術科の教室として長く使われました。

◆私たち10代の感想

「戦争やめて」広める

 美甘さんは「戦争を絶対にしない精神を持ってほしい」と言っていました。それは、戦争で兄を、原爆で父を失ってしまったからこそだと思いました。

 今の日本は平和で恵(めぐ)まれているけれど、世界のどこかで戦争や紛争(ふんそう)が続いています。戦争はいけない、やめなければならないと広めていきたいです。(中1・岡田実優)

人からの厚意忘れず

 美甘さんは被爆した直後に受けた、さまざまな人からの厚意を今でも忘れずに覚えています。当時収容されていた広島県坂町小屋浦の小学校へは、被爆から60年後に、多くの本を寄贈(きぞう)しました。

 私も、今までに人からしてもらってうれしかったことを、自ら進んで他の人にもしていきたいです。(高2・国本颯稀)

◆編集部より

 美甘さんの右耳は平らになっています。「みんなに見られるが、しょうがないよね。ワシじゃって見るもん」。耳は被爆直後、軟骨膜炎になり、広島第一陸軍病院宇品分院にいる時に切り取ったのです。しかも、薬が不足していた中、自分用の麻酔を、体に刺さった無数のガラス片で膿んでいた隣の女性に譲り、麻酔なしで手術を受けました。「右耳は失ったが、人の心は失わずにすんだ」と振り返ります。

 戦後、家族を失って一人ぼっちになった時にも、人の心を失わずにすみました。それは、人の物を一切盗まなかった、ということです。美甘さんは父親から「乾いても、盗泉(とうせん)の水を飲むなかれ」と言われていました。広島第一陸軍病院宇品分院を退院後、親戚宅に身を寄せていたものの「近所の6畳間に移ってくれ」と言われました。そこに、2歳下の友達が「明日朝の食べるもんがある」とカボチャを持って現れました。それは、友達が育てたはずはありません。盗んだ物でした。翌朝、食べようとすると、ネズミが食べたのでしょう、風船みたいにスカスカになっていました。「ばちが当たったんよのう」と言う美甘さんに対し、友達はカボチャを壁に投げつけました。「その友達は、後にヤクザの大親分になった」と美甘さんは明かしました。

 19歳で被爆した美甘さんは当時を鮮明に覚えていて、さまざまなエピソードがあります。その体験記は、米国に住む次女の章子さんが2013年夏、「RISING FROM THE ASHES」として英文で出版しました。日本語での出版も計画されています。出版されたら、ぜひ読んでみたらいかがでしょうか。(二井)

(2013年12月23日朝刊掲載)

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