×

証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 小田貞枝さん―忘れられぬ―駅での惨状 

小田貞枝(おだ・さだえ)さん(89)=広島市安佐南区

「平和」とは「譲り合える世界」。命を大事に

 備後十日市駅(現三次(みよし)駅、三次市)に運ばれてくる人たちを見て、涙(なみだ)が止まりませんでした。「何で、こんなことに…」。20歳の時に目の当たりにした悲しみと恐怖(きょうふ)は、今も小田(旧姓亀井)貞枝さん(89)の心に刻まれています。「もう70年もたとうとしているのに、忘れたいけど忘れられない」と胸の内を明かします。

 戦争で男手が不足する中、国鉄で芸備線や福塩線の車掌(しゃしょう)をしていた小田さん。1945年8月5日午後9時45分に広島駅(現広島市南区)を出た最終便で三次に戻(もど)りました。翌朝、備後十日市駅前の下宿先で寝(ね)ていたところ、カーテン越(ご)しにピカッと光り、花火が上がったような「ボーン」という音が聞こえました。

 しばらくして、一緒(いっしょ)に三次に戻ってきていた機関士が来ました。「広島に爆弾(ばくだん)が落ちて、福屋(現中区)が焼けよるんと。矢賀駅(現東区)から折り返し運転じゃけえの」と言われ、慌(あわ)てて髪(かみ)を結んで備後十日市駅に向かったのです。

 駅に列車が着きました。1両に100人くらい乗っていたでしょうか。貨車にぎゅうぎゅうに積まれた人たちは半死状態。服はぼろぼろ、髪が縮れた姿で、小田さんが「どこへ行かれますか」と尋(たず)ねても、返事がない人もいました。被爆者は投げるように、列車から降ろされ、ホームに並べられていたそうです。

 7日に初めて広島まで乗務しました。矢賀駅から広島駅まで歩く途中(とちゅう)、列車の待機場に敷(し)いてある線路が上下に波打っていました。「信じられない」。広島駅では、芸備線の発着する7番ホームの端(はし)が黒くなっていました。ホームで亡くなった人に重油をかけて焼いた、と聞きました。わずか1日での街中の変わりように、後から後から涙(なみだ)が出ました。

 戦争が終わり、男性が戦地から戻ってきたので、小田さんは45年11月に国鉄を辞めました。両親には「ピカにおうた、言うたらいけん」と言われました。知人の紹介(しょうかい)で、49年に結婚(けっこん)した時も、特に聞かれることも言うこともありませんでした。

 しかし、50年に長男を出産した後、体がだるくて立つこともできなくなりました。病院に行くと甲状腺(こうじょうせん)が腫(は)れている、との診断(しんだん)。「今、考えると、ピカのせいじゃったんかなあ」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 小田さんにとっての「平和」は「譲(ゆず)り合(あ)うことができる世界」と言います。「勝とうとすると、常に相手を倒(たお)さないといけなくなるから」と説明します。10代の子どもたちにも「命を大事にしてほしい。話し合いが大切」と語ります。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ

芸備線

県北部に被爆者運ぶ

 JR芸備線は、広島駅(広島市南区)と備中神代(こうじろ)駅(新見市)の間を走っています。広島、安芸高田、三次、庄原、新見の計5市を通り、延長159・1キロ(44駅)あります。

 芸備線は初め、芸備鉄道という私鉄が、大正時代に広島―備後庄原(庄原市)間で順次、開業。昭和時代の初期に、国鉄が備後庄原―備中神代間を開通するとともに、芸備鉄道の路線も国有化し、1937年に芸備線となりました。

 原爆が落とされた時は、広島駅の次にある矢賀駅(広島市東区)から折り返し運転をしました。三次市史や東城町史などによると、汽車で運ばれてきた被爆者が、向原、吉田口、甲立、三次、庄原、東城など各駅で救護所に収容されました。三次市史によると、陸海軍関係の病院が県北の各地に疎開(そかい)していることが知られていたため、多くの被災者が芸備線に乗った、とされています。

 広島駅まで復旧したのは、被爆から3日後の8月9日でした。

◆私たち10代の感想

子どもにも容赦なく

 「広島城の堀(ほり)に、子どもの履物(はきもの)が浮かんでいた」。この言葉が忘れられません。水を求めて堀に入った女の子。その子の遺体は、他の遺体と一緒に引き揚げられたらしく、履物だけがぽつりと残されていたのです。原爆は小さな子も容赦(ようしゃ)なく苦しめる、絶対にあってはいけないとあらためて感じました。(小6・藤井志穂)

心の傷 大きさを痛感

 「何でこんなことになったのか、ずっと思っていた」。凄惨(せいさん)な光景を語る小田さんは、何度も繰(く)り返(かえ)していました。原爆が人の体だけでなく、心にも大きな傷を残すとあらためて感じました。一方で、思い出すのもつらい被爆証言のはずなのに、「聞いてもらえて、楽になった」と言われ、うれしかったです。(高2・寺西紗綾)

◆編集部より

 小田さんは1945年8月4日、備後十日市(現三次)駅に止まった列車で女の赤ちゃんを連れた女性に出会いました。「帰る場所がないから泊めてほしい」というのです。列車には泊められないので、三次の下宿先に泊めました。母子は、高野町(現庄原市)から来て、入隊中の夫を訪ねて広島に行く、というのです。当時は軍関係者など証明書のある人しか列車に乗れなかったのですが、小田さんが5日、乗せてあげ、「帰るなら5日の晩に一緒に帰りましょう」と言って別れました。夜、母子とホームで再開。しかし「夫が公用で部隊におらず、明朝帰ってくるので会ってから帰る。今夜はホームに泊まる」ということでした。結局、母子は原爆で亡くなりました。「あの時、無理矢理連れて帰っていれば…」と小田さんは悔やみます。

 一方、5日の芸備線最終便に乗り遅れそうになった、赤ちゃんをおぶって3歳の娘を連れた女性を、列車が動き出している中、「乗りんちゃい」と引っ張り上げて乗せました。夫は市街地にいて亡くなりましたが、母子3人は被爆を免れました。

 小田さんは戦後、子育てが一段落してからビーズを習い始めました。40歳ごろからビーズ織りの額絵を手掛けるようになり、教室も開設。1年ほど前まで「道の駅 舞ロードIC千代田」(広島県北広島町)で作品の販売をしていたそうです。

 「1日1日を、のんびりでなく大事に暮らしたい」と話す小田さん。こちらまで元気づけられました(二井)

(2014年1月27日朝刊掲載)

年別アーカイブ