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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 上松敏郎さん―亡き父 行方知れぬまま

上松敏郎(うえまつ・としろう)さん(84)=広島市安芸区

職場の県庁跡捜した。来る日も来る日も

 「お父さん、元気でやっているよ」。上松敏郎さん(84)は毎年8月6日、広島市中区にある広島県職員の原爆慰霊碑(いれいひ)を訪れ、51歳で亡(な)くなった父の光雄さんに語(かた)り掛(か)けます。

 上松さんは当時、県立広島第一中学校(現国泰寺高)の4年生。15歳でした。1945年7月中旬から、母や2人の妹、弟は郊外(こうがい)に疎開(そかい)。仁保町(現南区)の自宅(じたく)で、県職員の父と生活していました。

 8月6日は、爆心地から約3・5キロ離れた学徒動員先の南観音町(現西区)の兵器工場で作業をしていました。突然(とつぜん)の光に、誰(だれ)かが「伏(ふ)せ!」と叫(さけ)びました。起き上がってみると、5メートルくらい飛ばされていました。けがは右腕(みぎうで)のすり傷(きず)だけでしたが、1カ月くらい治りませんでした。

 いったん防空壕(ごう)に避難(ひなん)して点呼(てんこ)を取り、帰宅(きたく)を許されました。市中心部から、やけどをした人たちが逃(に)げて来ていました。「お父さんは無事だろうか」。5日の晩(ばん)、仕事で水主(かこ)町(現中区加古町)の県庁(けんちょう)に泊(と)まっていた父の身が心配でした。水主町へ向かおうとしましたが、火の勢いが強く、断念せざるを得ませんでした。

 夕方、大回りをしてやっと仁保町の自宅にたどり着きました。しかし父の姿(すがた)はありません。郊外にある母たちの疎開先へ行きましたが、父の消息は分かりませんでした。翌(よく)7日からは、広島赤十字病院(現中区)や県庁跡(あと)など、来る日も来る日も父を捜(さが)しました。「最後の望みだった似島(現南区)の収容(しゅうよう)者の中にも名前がなくて…。情けなかった」と涙(なみだ)をこらえます。

 9月6日、県庁の仮庁舎になっていた東洋工業(現マツダ、府中町)で慰霊祭が行われました。父は体が大きかったので、「大きめの骨(ほね)を入れておいた」と、遺骨を渡(わた)されました。生き残った人の証言から、父は原爆投下直前の午前8時、所属していた援護課の部屋にいたことが分かっています。

 父が亡くなってからは苦労しました。進学して教師になる夢を諦(あきら)め、県庁に就職(しゅうしょく)し、働いて家族を支えました。母が結核(けっかく)になった時は、高価な薬を処方(しょほう)してもらうため、家を売らなければなりませんでした。

 56年に結婚し、現在は2人の子どもと4人の孫がいます。忘(わす)れられない父の言葉は「どんな人にも親切にしなさい」。その言葉を守り、退職後は地域の世話や、外国人に日本語を教えるボランティアをしています。「国は違(ちが)っても、人間同士の交流をしてほしい。戦争は絶対にすべきではない」。若(わか)い世代に呼(よ)び掛けます。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ

広島県庁

倒壊・全焼 犠牲者1142人

 被爆当時、広島県庁は広島市水主(かこ)町(現中区加古町)にありました。明治時代に建てられた木造の庁舎(ちょうしゃ)で、爆心地から約900メートルと近かったため、倒壊(とうかい)、全焼しました。庁内にいた職員の多くは、即死(そくし)か建物の下敷(したじ)きになって焼死したそうです。

 県によると、分室にいたり出勤途中(しゅっきんとちゅう)だったりした人たちも含(ふく)め、1142人が犠牲になりました。被爆後、県庁跡(あと)を訪れた職員の手記には、「焼けた死体があちこちにある。机(つくえ)の位置で見当をつけて、拾った骨(ほね)を封筒(ふうとう)に入れて、名前を書いた」など、惨状(さんじょう)がつづられています。

 県庁は、8月6日夕に比治山西側の多聞院、翌(よく)7日には下柳町(現中区銀山町)の東警察署(けいさつしょ)に機能を移しました。8月20日からは東洋工業(現マツダ、府中町)の一部を仮庁舎とし、1946年7月からは霞町(現南区)の旧広島陸軍兵器補給廠(しょう)を庁舎として使用。56年に今の中区基町に移りました。

 被爆時の県庁の跡には、慰霊碑(いれいひ)が建てられています。

◆私たち10代の感想

大切な人 一瞬で奪う

 涙(なみだ)をこらえながら、お父さんのことを話す上松さんの姿(すがた)が忘(わす)れられません。毎年、原爆で亡(な)くなった広島県職員を慰霊(いれい)する碑(ひ)を訪(おとず)れ、元気な姿を見せているそうです。大切な人を一瞬(いっしゅん)で奪(うば)ってしまう原爆のむごさをあらためて感じました。親と過ごす時間を大切にしたいです。(中3・松尾敢太郎)

無念さ思うと胸痛む

 上松さんは被爆後、焼けるような暑さの中、必死で父親を捜(さが)し回(まわ)りました。結局、見つけられなかった無念さを思うと、胸(むね)が痛(いた)みます。「どんな人にも親切に」という父親の生前の言葉通り、外国人に日本語を教えるなど、人との交流を大切にしている姿(すがた)を、私も見習いたいです。(高2・村越里紗)

◆編集部より

 上松さんは被爆後、来る日も来る日も父を捜し続けましたが、見つけられませんでした。父の働いていた広島県庁は、爆心地からわずか900㍍。庁舎にも行きましたが、すべてが焼かれ、何も残っていませんでした。広島赤十字病院では、収容されている負傷者の顔がやけどで腫れて見分けがつかず、「上松はおりませんか」と叫んで回りました。

 父と同じ援護課に所属していた職員2人が、即死を免れたそうです。2人は、父が午前8時に、援護課の部屋にいたことを教えてくれました。しかし、この2人も、被爆から数日後に亡くなってしまいました。

 庁舎にいたほとんどの職員が亡くなるという惨禍に見舞われた県庁。上松さんも、父は即死したのではないかと思っています。あれから69年。「あの日」には毎年欠かさず、県庁職員の原爆慰霊碑を訪れ、亡き父に思いをはせます。(増田)

(2014年2月10日朝刊掲載)

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