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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 杉山武郎さん―焦土の街 妹見つからず

杉山武郎(すぎやま・たけお)さん(83)=広島市安佐南区

作業場所捜した。「死体まるで物体のよう」

 原爆投下の翌日、杉山武郎さん(83)は、爆心地近くで建物疎開(そかい)作業をしていた2歳下の妹、美子さんを捜(さが)し回りました。そこで目にしたのは、腹(はら)の傷から内臓(ないぞう)がはみ出た人、川の中で折り重なった死体の群れ…。焦土(しょうど)の街で妹を見つけ出すことはできませんでした。

 当時は崇徳中(現崇徳中高)3年の14歳。肺(はい)を患(わずら)っていたため、爆心地近くの広島市水主(かこ)町(現中区)の建物疎開作業に出られず、爆心地から約7キロ北の古市町(現安佐南区)の自宅で療養(りょうよう)していました。

 「B29が飛んどるよ」。畑仕事をしていた母に言われ、外へ出ると、突然(とつぜん)、青白く熱い光が当たりました。「熱い!」。南の空に火球が見えました。大音響(おんきょう)とともに爆風が吹(ふ)き、自宅の天井(てんじょう)は壊(こわ)れ、雨戸や障子(しょうじ)も吹き飛ばされました。

 自宅には3人の弟もいましたが、けがはなく、みんな無事でした。市街の上空には、きのこ雲が浮(う)かんでいました。

 しばらくして、けがをした人たちが続々と逃(に)げてきました。「妹は無事だろうか。何とか逃げ延(の)びていてほしい…」。妹は市立第一高等女学校(現舟入高)の1年生で12歳。爆心地に近い木挽(こびき)町(現中区)一帯の建物疎開作業に、朝早くから出かけていました。

 翌7日、親戚(しんせき)と一緒(いっしょ)に妹を捜しに行きました。妹が作業をしていた現在の平和記念公園(中区)周辺の惨状(さんじょう)は、今も忘(わす)れることができません。生徒を守るように亡(な)くなった先生らしき女性、電信柱の下敷(したじ)きになった遺体(いたい)…。「死体はまるで物体のようで、人の死をかわいそうだと思えなかった」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 自宅へ戻(もど)って、母に報告しました。静かに聞いていた母が大声で泣(な)きだしました。そこで初めてわれに返り、泣き崩(くず)れました。

 戦後、建物疎開作業に出ていた自分の同級生たちも被爆死していた事実を知りました。母も、娘(むすめ)を亡くした悲しみに暮(く)れる日々が続いていました。「運よく死を免(まぬか)れ、後ろめたい。あの時、死ねばよかった」。申(もう)し訳(わけ)ないという気持ちが募(つの)るようになりました。

 しかし、母から「あなたがいるから、何とか生きていられる」と言われ、妹の分まで生きて母の悲しみを和らげたい、と思うようになりました。必死で勉強し、広島大を卒業。憧(あこが)れの中学教師になりました。

 1959年に結婚(けっこん)し、2人の子どもと5人の孫がいます。91年、祇園東中(安佐南区)の校長を最後に定年退職しました。

 「多くの犠牲(ぎせい)の上に今の平和がある。争いを解決し、平和を築くには、どうすればいいか、考えられるようになってほしい。身の回りから平和をつくり、その輪を広げてもらいたい」。そう子どもたちに呼(よ)び掛(か)けます。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ

平和記念公園

設計案 全国から募集

 広島市中区の平和記念公園は、本川と元安川、平和大通りに挟(はさ)まれた三角地帯と、原爆ドーム周辺を合わせた部分を指します。面積は12・21ヘクタールで、1954年にできました。一帯は、45年8月6日の原爆投下で壊滅(かいめつ)する前は繁華街(はんかがい)として栄えていました。

 公園になったのは、市が戦後間もなく構想したからです。49年4月には、「永久に世界平和の拠点(きょてん)」となるような設計案を全国から広く募集(ぼしゅう)しました。同年8月、145点の応募作の中から当時東京大助教授だった丹下(たんげ)健三氏(1913~2005年)のグループの作品が選ばれました。

 その特徴(とくちょう)は、96年に世界遺産(いさん)に登録された原爆ドームと原爆慰霊碑(いれいひ)、原爆資料館を一直線上に結んだ配置です。2007年には、国の名勝に指定されました。

 公園内には、白血病で亡(な)くなった少女佐々木禎子さんがモデルの「原爆の子の像」などの慰霊碑や、被爆建物のレストハウス、被爆アオギリなどがあります。

◆私たち10代の感想

人の感情奪う恐しさ

 「妹を捜(さが)しに爆心地付近を歩いていた時、死体をただの物質のように感じた」という言葉に衝撃(しょうげき)を受けました。普通(ふつう)なら「かわいそう」「怖(こわ)い」と感じるだろうに、何も考えられなくなったというのです。原爆はあらゆる命だけでなく、生きている人たちの感情までも奪(うば)ってしまうのかとあらためて恐(おそ)ろしくなりました。(小6・藤井志穂)

身の回りから平和を

 亡(な)くなった妹の分まで生きると決めた杉山さん。「もっと命を大切にしてほしい」と話していました。今、自殺や、簡単(かんたん)に人を殺してしまう行為(こうい)がたくさん起きていることを、残念に思っているそうです。正直で広い心を持つよう、今以上に心掛(こころが)けて、身の回りから平和をつくっていきたいです。(高2・井口優香)

◆編集部より

 妹の美子さんは、子どものころから何でもできる優等生でした。広島市立第一高等女学校(現舟入高)に進学。しかし、戦況は厳しく、勉強どころではありませんでした。あの日は、市中心部での建物疎開作業に動員されたのです。

 あの朝、杉山さんの母は、美子さんに新しい鼻緒を付けたげたを用意したそうです。そのことが、娘を亡くして悲しみに暮れる母にとって、わずかばかりの気休めになったそうです。

 原爆では、美子さんのように罪のない子どもたちがたくさん犠牲になりました。中でも、美子さんが通っていた広島市立第一高等女学校は、市内で最も多くの犠牲者を出した学校です。教職員を含む676人が命を落としました。

 平和大通りの緑地帯に、同校の慰霊碑があります。美子さんたちが建物疎開作業をしていた場所の近くです。杉山さんは毎年、慰霊祭に参列します。「生きていたら昔話に花が咲いただろうに…」と思いをはせます。(増田)

(2014年3月10日朝刊掲載)

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