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検証 ヒロシマの半世紀

ヒロシマ50年 生きて <1> 出生日「8月6日」

■記者 福島義文

藤井博子さん(49)=広島市西区中広町2丁目

 病床の母に語りかけた。「私、もう50歳になるんよ」。右半身不随で会話も少し不自由になった母が、「まあ」と短い言葉で応じた。「あの日」、出産直後の母は、まだ名もない赤ん坊を抱き、どぶ川で黒い雨に打たれた。

 1945年8月6日、午前八時ごろ。広島市中広町に住む富田虎雄さん、好子さん夫婦に四女が生まれた。産湯をつかい、助産婦が帰った直後、ピカッと光った。わが子をのぞき込んでいた虎雄さんの背にガラス片が食い込んだ。屋根が崩れ、赤ん坊は部屋の隅に飛ばされたが、ミシンの下で無傷で泣いていた。誕生を知らせに走った四歳上の三女は、隣家の下敷きになり、二度と戻らなかった。

 この赤ん坊が、最年少の直接被爆者だろう。むろん彼女に被爆の記憶はない。幼いころから大病の経験もない。広島女子商業高の軟式庭球部で全国大会の準決勝まで進み、卒業後は事務員として市内の会社に4年間勤めた。

 彼女は、復興に立ち上がる被爆者にとって励みだった。「ピカ子ちゃん」の名で幾度となくマスコミに登場する。友達に「ピカちゃん」と呼ばれても、気にも留めなかった。が、成長するにつれ、新聞やテレビ取材が重荷になる。23歳の結婚を機に、すべての取材を避けてきた。

 夫は母のお好み焼き屋の常連。結婚1年前から市内の塗装工場の一角を借り、板金業を始めていた。一男一女をもうけ、家事の合間に工場の会計簿をにらむ日々。10年前から、夫を助けて自動車分解の工具も手にする。

 「うちは従業員1人。何とか給料が遅れない程度で…」。借地だった生家の土地105平方メートル(35坪)を夫が買い受け、3階建てビルに入ったのは結婚12年目だった。実の親、2人の子供と6人暮らしで、家族の会話が弾む。「ささやかな日常が一番の幸せ」と笑う。

 昨年夏、50回忌法要で姉をしのんだ。中区のお寺にある墓は「昭和20年8月6日亡」と刻む。自らの「誕生日」が姉の「命日」…。避けるわけではないが、原爆はあまり話題にしない。法要の日も、世間話で節目を終わった。

 母が言ったことがある。「死んだ弘美の『ひろ』を、あんたにつけたんよ」。生まれ変わりとまでは考えたくないが「生かされた命」の思いは強い。

 原爆の混乱、再建、健康への不安…。「大変じゃったろうねえ」。2人の子を産み育てて初めて、母の苦労を知った。四年前に母好子さん(77)が、昨夏に父虎雄さん(83)が相次いで病に倒れた時、一家の往時を知る人が「親孝行せんにゃ」と声をかけてくれた。

 八月が近づくと旧友が思い出して電話をくれる。でも「宿命の誕生日」とみられるのは重すぎる。昨年の当日も、例年通り家事の手を止め手を合わせた。

 家族の了解も得て、26年ぶりの取材。別れ際に「『ピカは元気です』と伝えてください」と一言。だれへの伝言だったろう。気丈そうな目元が、この時うるんだ。

 原爆がさく裂し、ヒロシマが地獄の街と化した日から50年。きのこ雲の下を逃げまどい、かろうじて生き延びた人々は、あの一瞬から人生が変わった。淡々と生きてきたように見えても、記憶のひだにいやし難い傷跡を引きずる。かつて中国新聞の紙面に登場し、時代を証言してくれた人たちのその後は? 半世紀を生き抜いた人たちを再訪する。


  ▽メモ
 広島市内には1945年8月6日生まれが33人(昨年10月末)いる。転入者もいれば、転出した該当者もあろう。一方、厚生省まとめで原爆被災の総死者数は広島で23万6,570人(1992年度末)だが、直爆死者数など正確な死者数はいまだ不明。

(1995年1月3日朝刊掲載)

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