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検証 ヒロシマの半世紀

ヒロシマ50年 生きて <2> 原爆乙女

■記者 岡畠鉄也

田坂博子さん(63)=広島県豊田郡瀬戸田町荻

 ミカンに彩られた瀬戸の島で、博子さんは自分史を書き始めた。24年連れ添った夫の死後、米国から故郷に戻り5年。被爆の傷を引きずりながら生きた半世紀を自分なりに見つめたい、そんな思いからだ。

 「命が終わるまで苦労させられるわね。原爆には」。顔の傷跡を隠すため移植した皮膚が突っ張り、口が十分に開かない。被爆の翌年に彼女を診察した故都築正男東大教授が「この子はよほど『死に運』がなかったんだね」と漏らした言葉を鮮明に覚えている。

 「そう、生きたというより生かされた人生なのかもしれない」

 青空にキラキラ輝く機体が目に焼きついている。旧広島女子商業の同級生と広島市の鶴見橋付近で建物疎開の作業中だった。「Bちゃんよ。Bちゃん」。米爆撃機B29を少女たちはそう呼んでいた。「田坂さん、どこ」。友人の言葉に手を休め顔を上げた瞬間だった。

 冷たい視線が顔に刺さる。半年の間に13回もメスを入れたこともある。だが、過酷な運命を直視することが自立へのバネになった。広島市近郊にある洋裁学校に通い始める。渡米治療の話が舞い込んだのは、そんなある日。被爆から10年の歳月が流れていた。

 「少しでも良くなりたい一心。米国への抵抗など感じる余裕さえなかった」。ニューヨークで始まった療養生活。人類が初めて被った悲劇の生き証人として、博子さんらは全米に衝撃を与え、苦難を克服しようと努力する姿が感動を与えた。ハリー・ハリスさんもそんな中の1人だった。

 欧州戦線で負傷した経験を持つハリスさんは、見舞いや手紙で博子さんを励まし続ける。同情が愛情に変わるのに時間はかからない。しかし、ハリスさんの求婚を博子さんは断る。「軽率な人と思った。それにこの傷でしょ。結婚なんてね」

 1年半後に帰国、洋裁の道を本格的に進み始める。しかし、ハリスさんはあきらめない。愛の便りが相次いだ。週に3通届いたこともある。辞書と首っぴきで断りの返事を書く。それでも便りは届く。博子さんが決断したのは求婚から10年目。33歳の夏だった。

 ボルティモアでの生活が始まる。ハリスさんは新聞輸送、博子さんはデパートの婦人服売り場で働いた。時折、客に顔の傷を聞かれる。服にピンを立てながら体験を話す。すると客は「アイムソーリー」。開放的な気質、本音で語りあえる社会が心地よかった。

 ハリスさんの愛情も変わらない。街で出会った友人に、自分をごく自然に紹介してくれる。そんな平凡がうれしかった。約束を違えたことのない夫だが、銀婚式記念のハワイ旅行だけは実現しなかった。医療事故で68年の生涯を閉じてしまったのだ。

 「医師を許すことにしました。夫もきっと喜んでくれているはず。真実の愛の尊さを教えてくれたのは彼だから」

 ミカン畑に囲まれた白い家に、ハリスさんの胸像が飾ってある。帰国したのは、夫との思い出が詰まった地に暮らすことがつらかったから。過去を振り返る余裕ができたのはつい最近のこと。だから、自分史もやっと被爆体験を書き終えたばかりである。

 先日、知人から便りが届いた。米国に行くという。懐かしい地名に夫の笑顔が重なる。万感の思いを込めて返事を書いた。「ボルティモアによろしく」と。


▽メモ
 原爆乙女の渡米治療は米ジャーナリストのノーマン・カズンズ氏が提唱。1955年に日米の医師らが実施した。ニューヨークのマウント・サイナイ病院で25人が整形外科治療を受けた。

(1995年1月4日朝刊掲載)

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