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検証 ヒロシマの半世紀

ヒロシマ50年 生きて <4> 原爆記録映画

■記者 西本雅実

牛田律子さん(54)=横浜市港北区日吉本町3丁目

 昨夏、結膜炎にかかった。自宅近くの眼科窓口で、人目をはばかるように被爆者健康手帳を出した。それまで、故のない負い目が心の隅からぬぐえず、使うのにためらいがあった。手帳を取得し28年目にして、初めて被爆者として診察を受けた。

 「こちらに来て原爆への世間の目というか、好奇心であれこれ言われ…。母が申していたように何事も善意に受け止めればいいのでしょうが…」

 東京・渋谷から横浜に延びる私鉄線沿いの閑静な住宅街。やわらかな日差しが居間を包む。か細い声で広島をたどった。

 爆心から1.7キロ。現在の広島市西区小河内町で家の下敷きになった。外出していた母、沢田トシ子さんも無事だった。ただ首にひどいやけどを負い、ケロイドとなって残った。

 父巌さんは復員したものの胸を患い、戦後4年目に死去。母は電気料金の集金人となった。3つ年上の姉が結婚した後は、やさしく働き者の母の愛情を独り占めできた。しかし、母が首にいつも脱脂綿を当てているのは気掛かりだった。

 「今から思えば、映画に取り上げられたのは放射能の怖さを伝えるためだったんですね」。海外でも反響を呼んだ原爆記録映画「世界は恐怖する」に登場したいきさつを、そう振り返る。

 映画は、ビキニ被災を機に高まった原水爆禁止運動を受け、ドキュメンタリー映画の第1人者だった亀井文夫監督が1957年に製作した。カメラは、広島原爆病院のベッドに横たわる44歳の母と病室から高校に通う17歳の娘、「沢田親子」を収めた。

 その母トシ子さんは映画の公開前には、頚(けい)動脈を突き破る出血が止まらなくなった。皮膚がんだった。娘は母に代わる「恐怖」の証言者として、平和運動家らの目に留まる。

 ソ連が核実験中止を発表するや、フルシチョフ首相あてに「感謝」の手紙を送った。平和記念公園に著名人が訪れると歓迎の花束を贈った。「大人の人に言われるままのところもありました。でも原爆はあってはならない。本当にその気持ちでいっぱいでした」

 広島を離れたのは21歳の年。東京出身の夫、牛田憲吾さん(62)に見初められた。温かい人柄にひかれ結婚したが、周囲から胸をえぐるような問い掛けが続いた。「原爆に遭ったんですって?」「子供は大丈夫なの?」

 一時は、広島の出身ということさえ隠したこともあった。「広島の姉はずっと体が弱いのに、私が目を患うと心配してくれ、それで手帳のお世話に…。原爆を隠しながら。都合で手帳を使う。身勝手です」。目頭がみるみる潤んだ。

 いったんは断った気の重い取材に応じたのは、息子のひと言だった。「お母さんが悪いことをしたわけじゃない」

 語り終え、笑みを浮かべ、ふだんの生活を口にするころには、冬の日はとっぷり暮れていた。帰り道。バスの停留所までわざわざ案内してくれた。「原爆から50年近くたち、私なりに何か平和のために役立てれば…。してみてもいいかなと…」

 28年目に初めて被爆者健康手帳を使ったのも、そんなふんぎりの1つだったのかもしれない。


▽ メモ
 「世界は恐怖する」は、原爆症患者や生物被ばく実験を通し、放射能の恐ろしさを描いた上映時間80分の作品。英語、仏語、ロシア語版も作られ、日本語版ナレーションは徳川夢声が務めた。亀井文夫監督は1987年死去。

(1995年1月6日朝刊掲載)

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