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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <1> 救援・援助

■報道部 岡畠鉄也

 「われわれは下手な魔法使いのように、解き方を知らずに魔法をかけるはめに陥った」―。1945年、広島への原爆投下を聞いたイギリスの劇作家バーナード・ショーは、ロンドン・タイムス紙にこう批評を寄せた。

 彼の予言通り、人類は核時代という滅亡と背中合わせの呪(じゅ)文に縛られたまま、50年が経過しようとしている。かつて死臭とがれきに覆われた被爆地ヒロシマは今、高層ビルが立ち並ぶ近代都市に生まれ変わった。その復興の歩みは、核時代を生きる人類にとって一筋の光明と言えないだろうか。

 広島がヒロシマたりえたのは、市民のたゆまざる努力の一方で、原爆の非人道性に強い衝撃を受けた世界の良心の支えがあったからではないか。

 ヒロシマ50年の歩みを振り返る第一歩として、被爆の惨状を伝えた「報道」の足跡、市民を「救援・援助」することにより魔法の解き方に挑んだ人々を追った。


焦土で黙々 家づくり シュモーさん

   広島市中区江波二本松1丁目、通称「皿山」のふもとに今では珍しくなった平屋の文化住宅が1戸建つ。ひび割れた壁、黒ずんだ柱が歳月を感じさせる。この家が、1949年から4年間に米人森林学者らが市内3カ所に建てた「ヒロシマの家」20戸のうち現存する唯一の住宅である。

 森林学者はフロイド・シュモー氏という。絶対的平和主義に基づく実践を信条とするクエーカー教徒。第一次世界大戦への徴兵を拒否し、第二次大戦中は日系人の強制収容に反対するなど少数民族差別の闘いに明け暮れた。はるばる海を渡り、焼け野原に黙々と被爆者の家を建てる54歳の平和主義者は当時、その行為を「自らの心の痛みをいやすため」と語っている。

 あっ、自分自身に爆弾が落とされた・。米ワシントン州シアトル市にあった平和奉仕団体の事務所で広島への原爆投下のニュースを聞いた瞬間、シュモー氏はこう感じたという。「人間はここまで堕落したのか」。良心の痛みは恐怖に変わった。

 一緒に事務所で働いていた日系二世のアキ・クロセさん(69)=現在、シアトル市在住=は、その時のシュモー氏の姿を鮮明に覚えている。「あの柔和な顔が悲しそうな表情に変わった。『恥ずかしい』と繰り返し、その場で大統領に抗議電報を打ったんです。怒りようはそばに寄れないほどでした」

 シュモー氏がかつて欧州で難民の救援活動した経験をヒントに、建設奉仕を決意したのはその日のこと。1口1ドルの寄付を募り全米を歩いた。「1年間、キャンデーを我慢する」と、小遣いを寄付してくれた5歳の少年もいる。シュモー氏自身も旅費を稼ぐためアルバイトし、ルース夫人も缶詰工場で働いた。

 1949年8月4日、シュモー氏は善意の4000ドルを懐に広島駅に降り立った。三等車の窓から荷物が無造作に投げ出され、プラットホームにたちまち山を築く。かなたから浜井信三広島市長らが汗をぬぐいながら駆け寄って来る。米国人は二等車と相場が決まっていた時代、歓迎陣は二等車のホームで待っていたのだ。

 シュモー氏の一団は、エメリー・アンドリウス牧師と大学講師デイジー・デイブス嬢、小学校教諭ルース・ジェンキンズ嬢の4人。礼服姿の市長と握手する一行は長旅で薄汚れた姿のまま。カメラのフラッシュにてれ笑いを浮かべた。

 広島流川教会に落ち着き、広島記念病院でボランティアをしながら着工を待った。ある日、シュモー氏は流川教会の谷本清牧師の長女紘子さん(当時4歳)を連れ広島城の石垣に登った。夕映えの中に広がるバラック。シュモー氏は廃虚から立ち上がる人間の強さに胸を打たれ、紘子さんを抱く手に力を込めた。

 紘子さんは今、大阪府吹田市で平和活動にかかわる。「シュモーさんのあの体のぬくもりが、その後の私をつくったのかもしれない」。彼女は湾岸戦争直前、フセイン・イラク大統領に戦争回避を直訴するためバグダッドに飛んだこともある。

 広島入りして12日目。一行はやっと家造りを始めた。炎天下、大八車に材木を積み、教会から約2キロ離れた皆実町まで通う。東京や広島の学生ボランティアを加えた行列は、街の注目を集めた。シュモー氏はけげんそうに見つめる人々にウインクする。すると空気がなごみ、子供たちがはしゃぎながらついて来た。

 シュモー氏の著書「日本印象記」にこんな一節がある。「12歳くらいの聡明な少年が3人ほどやって来て一緒に働いた…」。その3人のうちの1人が元防衛庁長官の池田行彦代議士(57)=広島2区選出=である。「家でスイカを一緒に食べた。米国人はスイカをどう食べるのかと尋ねると、こうだと言ってがぶりと食いついた。人の心にスッと入りこめる人だった」と池田氏は回想する。

 約2カ月後、4戸の家が完成する。庭に「祈平和」と刻んだ石灯ろうを置いた。入居希望者は3800人にも上った。10月1日に引き渡し式。招待状の「皆実町シュモー住宅」との名は本人の希望で「皆実町平和住宅」になった。

 「この家は心の愛を目に見える形で表現したものです」。浜井市長らを前に淡々と語るシュモー氏。原爆投下以来抱き続けた心の痛みはやっといやされた。

 シュモー氏はその後2回広島に来て、計20戸の住宅と集会所を建てる。そこで暮らした家族は五百世帯を超える。その後も「平和運動は行うものである」との信念そのままに、朝鮮戦争後の韓国や中東へも渡り家を建てた。

 かつての「敵国」で「敵国人」のために黙々と家づくりに励んだシュモー氏は、原爆で荒廃した広島の地に人類愛の尊さを刻み、復興にかける広島市民に大きな希望を与えた。この偉大なサポーターに広島市は1983年、特別名誉市民の称号を贈る。

 今、シュモー氏はシアトル市で健在だ。娘のルサナさんの家で余生を過ごす。体の許す限り自らの手でつくった平和公園に行く。谷本清平和賞(1988年)の賞金を元手に造った公園には、原爆の子の像と同じブロンズ像や浜井市長から贈られた被爆の痕跡を残す石灯ろうがある。

 ヒロシマにこだわり続けたヒューマニストの森林学者は今年、百歳を迎える。そして、ヒロシマに注がれたヒューマニズムのあかしである「皿山」の最後の住宅は、都市計画によって近く取り壊される予定である。


≪略史≫ 海外の善意 復興の支えに

 広島の復興は海外からの援助にも支えられた。原爆投下直後の1945年9月8日には国際赤十字社駐日代表のマルセル・ジュノー博士が15トンの医薬品を携えて広島に入る。薬が底をついていた病院や救護所に配られ、数万人の市民を救ったといわれる。

 博士は「幾多の人々が恐ろしい激痛の中で無残な死を遂げたことは、広島・長崎だけの破局ではない。われわれ一人ひとりが破局の主人公となるかもしれない」と手記に著し、イタリア・ボンベイの悲劇の再現と称したがれきの中で、人類と核兵器は共存し得ないという真理に触れる。

 広島への援助が本格化するのは、ジョン・ハーシー氏のルポ「ヒロシマ」が広く読まれる1947年以降である。中国5県内に駐留していたカトリック信者の兵士が6万ドルを寄付し、新聞配達でためた15セントを日本への旅行者に託した少年の話が市民を感動させた。

 中でも海外の日系人は広島出身者が多いこともあって積極的だった。強制収容の苦難にもかかわらず米ロサンゼルスの広島県人会を中心とする復興援助促進会が、1948年に第1便として3千数百ドルを広島商工会議所に贈ったのをはじめ、1950年には邦貨で500万円を広島市に寄付。ホノルルの広島戦災救済会も1948年から募金を始め、翌年には11万2000ドルを広島県と広島市に寄付した。

 ブラジル、ペルー、アルゼンチンなどの県人会も1947年から1951年にかけて相次いで送金。これらの寄付金は老人ホームや母子寮など福祉施設整備や戦災孤児の育成資金にあてられた。ロスの寄付金で建てた児童図書館は、東大助教授だった丹下健三氏が設計、ガラス張りの円形の建物は善意の象徴として目をひいた。

 原爆の非人道性にいち早く抗議の声を上げた宗教者も支援に立ち上がる。自らも被爆した幟町カトリック教会のフーゴー・ラサール神父が呼び掛け、1954年に完工した世界平和記念聖堂(広島市中区幟町)の建設は、その典型である。

 建設費8000万円のうち海外の援助で6000万円を集め、さらに当時の西ドイツのケルン市からパイプオルガン、ボフム市は四つの平和の鐘、ボン市は聖ヒツ、アーヘン市からは水盤、デュッセルドルフ市は正面扉、ベルギーから大理石の祭壇が贈られた。ローマ法王が完工式に寄せたメッセージは「聖堂は平和の道の象徴である」。

 その他、精神養子運動や原爆乙女の渡米治療に尽力した米「土曜文学評論」主筆ノーマン・カズンズ氏や被爆者のための広島「憩の家」を設立した作家のアイラ・モリス、エディタ・モリス夫妻ら、私財をなげうって広島を支援した多くの外国人が復興史を彩る。


<参考文献>原爆三十年(広島県)▽広島新史歴史編(広島市)▽日本印象記(フロイド・シュモー著)▽原水爆時代(今堀誠二著)▽広島TODAY(ウィルフレッド・バーチェット著)▽ヒロシマに、なぜ(小倉馨著)▽ドクター・ジュノー武器なき勇者(大佐古一郎著)

(1995年1月22日朝刊掲載)

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