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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <2> 平和公園

■報道部 西本雅実

 川の街、広島市のデルタの真ん中に広がる平和記念公園とそれに接する平和大通り。幅100メートルの大通りから原爆資料館を正面に見ると、原爆慰霊碑、原爆ドームが北に真っすぐに並ぶ。だれもが無言のうちにヒロシマの叫びを聞き取る。

 この地は1発の原子爆弾で消し飛んだ爆心地である。文字通り廃虚の中から12万2千平方メートルに及ぶ公園、記念施設が建設され、永遠の平和を誓う場となった。

 この壮大な公園計画には、日米の若き2人の芸術家が持てる才能と情熱を傾注した。丹下健三さんとイサム・ノグチさん。しかし計画は国民感情や時代の波にほんろうされた。一方、平和式典は、占領軍の圧力に左右される。ヒロシマ建設とその訴えに秘められた史実を探る。


「慰霊碑」日の目見ず イサム・ノグチさん

 父母を日米に持つイサムがヒロシマのモニュメントを作る。思い入れが強かった分だけ、自分の案が不採用と分かった時の落ち込みは相当なものでした―。弟の野口道夫さん(63)はそう述懐し、兄が残した平和大橋のたもとにたたずんだ。

 兄はイサム・ノグチさん。1988年末、ニューヨークで84歳で亡くなった国際的な彫刻家である。パリの国連教育科学文化機関(ユネスコ)日本庭園をはじめ造園、舞台装置など幅広い分野で活躍した。女優山口(現大鷹)淑子さん(74)との結婚は、戦後の日本で大きな話題となった。

 その彼は1951年、平和記念公園につながる平和大橋、西平和大橋の欄干をデザインした。同時に、埴輪(はにわ)にヒントを得た「Memorial to the dead Hiroshima」(ヒロシマ原爆慰霊碑)も手掛けるが、この碑が日の目を見ることはついになかった。

 ノグチさんは、英米文学界でも名声を博した詩人野口米次郎と米人作家レオニー・ギルモアの間にロサンゼルスで生まれた。2つの年に母子で父の国に向かうが、慶応大教授の米次郎には新妻がいた。13歳で一人米国に戻り、コロンビア大医学部在学中に彫刻家を志し、1927年パリへ渡る。

 「国籍とか人種にとらわれなかった本当の自由人。そうした彼の考えは第二次大戦でさらに強まったんです」。ニューヨークのイサム・ノグチ庭園美術館を預かるショウジ・サダオさん(67)は幼いころから培われたノグチさんの信条をそう語る。

 日米開戦で西海岸に住む日系人11万人に総移動令が出されると、ノグチさんは東部から、自らの意思で荒涼たる砂漠が続くアリゾナ州ポストン収容所に入る。そこで制作活動を通し潤いをつくろうとした。

 「『戦争の間、苦しんだでしょう。僕も日本とアメリカの戦争で悩みました』という言葉が胸をついた」。山口淑子さんは、自伝「李香蘭 私の半生」でノグチさんに秘められた深い傷を端的に記す。

 その山口さんの義弟、彫刻家で跡見学園女子大教授の広井力さん(70)は、ノグチさんの制作活動にかかわっていた。1950年、日本を再訪したイサム・ノグチの名は既に世界にとどろいていた。広井さんはノグチさんの助手として平和大橋の建設現場に同行し、原爆慰霊碑のデザインにも携わった。

 「イサムさんも張り切っていた。東大助教授だった丹下さんの教室で、一緒に石こうを使って試作を重ねてね。なのに、それに横やりが入って…」

 平和記念公園の建設は、広島平和記念都市建設専門委のお墨付きが必要だった。委員会には、経済安定本部顧問や建築界の大御所だった東大教授ら10人が名を連ねていた。

 「(委員の中に)『原爆を落とした国の人間がつくった慰霊碑なんて』という人がいたんです。丹下さんはその板挟みになり最後はイサムに『自分の力ではどうにも…』と手をついて兄イサムに謝った」。道夫さんは名指しを避けながら、ノグチさんの原爆慰霊碑が拒否された経緯を明かしてくれた。

 日米文化を受け継ぐ芸術家として、母の国が落とした原爆への罪ほろぼしのためにも、ヒロシマの記念碑をつくりたい―。そんなノグチさんの熱い思いは、アメリカ国籍ゆえに阻まれた。

 「(原爆慰霊碑は)すべての者にとって認識と追憶の象徴でありながら、外国人の助けは必要ないとされた」。1953年、米誌「芸術と建築」にこう書いたノグチさんだが「Memorial to the dead Hiroshima」への思いは募る。碑の設置場所をワシントンやニューヨークの国連本部近くに求めた。しかし、結局果たせなかった。実現すれば、高さ6メートルの黒御影石の「ヒロシマ原爆慰霊碑」になるはずだった。

 いま広島市は被爆50年事業の一環として、平和大通りの全面的な見直しを進めている。増大する交通量や構想中の地下鉄東西線(仮称)に対応するためである。シンボルの平和大橋と西平和大橋(幅員15メートル)の掛け替えが検討課題になっている。

 道夫さんはその話し合いのため昨年末、東京から広島を訪れた。「イサムが欄干を手掛けたのはここだけ。復元でもいいからその精神を残してほしい」と市に求めた。

 ノグチさんは1970年代から香川県牟礼町にもアトリエを構え、亡くなるまで日米、欧州を駆け回り、制作を続けた。

 「国境がこの世で一番ろくなもんじゃないね。世界は一つなのに」。口ぐせのように、時にはほろ苦そうに、話していたという。


丹下健三さん(81) ドームを軸に設計

 原爆投下はショックでした。広島は、郷里今治を離れて高校生活を送った所ですから。戦災復興院(現建設省)が復興調査を呼び掛けると「原爆症になる」と言う人もいましたが、ためらわず手を上げました。

 赤坂御所を眼下に望む丹下健三・都市・建築設計研究所。1980年文化勲章、仏文化芸術勲章コマンドール…。「世界のタンゲ」も当時は、東京大建築科助教授、33歳だった。1946年秋、木炭車でがれきの街を駆け回った。

 爆心地の公園化は浜井市長が熱心で、どちらともなしに「100メートル道路の北側が適当じゃないか」となりました。原爆ドームは「壊してしまえ」という声もありましたが、私は原爆の悲惨さ、恐ろしさが分かってこそ平和は生まれるという考え。それでドームをシンボルに配して設計したわけです。

 市は1949年、平和記念公園の設計コンペを実施。145点の中から丹下さんと研究室の3人の共同作品が選ばれる。賞金7万円。カレーライス1皿が50円だった。

 公園中央部はベルをつるしたかなり大きなアーチを建て、100メートル道路からドームを見通せる案でした。しかし、市に予算がない。米セントルイスかどこかで先にできたりして「小さなものでもいいじゃないか」と原爆慰霊碑になったんです。

 100メートル道路から公園東西に掛かる橋は1950年、米の対日見返り資金で建設が始まる。その欄干は彫刻家イサム・ノグチが手掛けた。

 デザインを中国地建から頼まれ、日本にいたイサムさんに話すとぜひやりたいと言う。市議会で珍妙な芸術論争があったりしましたが、実現した。そこまではうまくいったのですが…。

 慰霊碑も、イサムさんがいいなと思いました。しかし、私が甘かったというか…、原爆を落としたアメリカ人が作るのは筋違い、日本人の手でという声が強かった。コミッティー(広島平和記念都市建設専門委)を説得はしましたが、受け入れられない。はにわ形の慰霊碑は最初から私も考えていました。

 原爆資料館を真ん中に3つの記念施設が原案通り渡り廊下で結ばれたのは1994年。この間、他者の設計によるホテルが公園内に建つなどした。

 おかしな建物があったりしましたが、市民の力でだんだんと平和を訴える理想的な場になった。原爆はダメだ。非人間的なものはいらない。公園一帯はそうしたことをわれわれに教えてくれていると思いますね。  丹下さんは1979年、平和大通り中央部分の公園化と側道の車道化を示した。市は現在、幹線道としての機能強化を検討している。

 平和大通りという以上、単なる道路ではない。中央部の車道拡幅はどうですか…。公園と大通りはヒロシマの都市としてのコア(しん)。1951年初めて海外に行き、平和記念都市計画を発表した時、周りからできるのかと言われました。平和の願いを混然一体と表した場は世界中どこにもない。誇れるものだと思います。

<参考文献>「人間と建築」「一本の鉛筆から」(以上 丹下健三著)▽「現代の建築家丹下健三(1)(2)(3)(4)」(鹿島出版会)▽「広島被爆40年史 都市の復興」(広島市)▽「広島県戦災史」(広島県)▽「ISAMU NOGUCHI ESSAYS AND CONVERSATIONS」▽「NOGUCHI」(BRUCE ALTSHULER)

(1995年1月29日朝刊掲載)

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