×

検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <3> 平和都市法

■報道部 福島義文

 原爆で壊滅した広島復興の道のりは、再建に要する財源と心の支えを探る日々であった。そんな苦難の時代、物心両面で光明になったのが「広島平和記念都市建設法」だった。恒久平和を掲げ、国家が復興財源の一部を保証するこの法律は、「ヒロシマ再生」の礎となった。その存在さえ知らない世代が増える中、法律案起草者の目は、今も広島を見据え続けている。

 広島復興の大事業の1つは同市基町地区の再開発事業だろう。「原爆スラム」と呼ばれた密集住宅街は、いま高層住宅街に一変した。

しかしコンクリートの城の中では、都心の高齢化という新たな都市問題が加速度的に進む。

 平和都市建設のため法律制定に注いだ情熱、そして「戦後」脱却の一大事業に忍び寄る影。広島復興の裏面をみる。


恒久平和へ 思い熱く 都市法を起草した寺光忠さん

 その第一次案は、一晩の徹夜で一気に書き上げた。官舎の窓が白み始めた冬の朝、前文と九条の法案原形が形を整えていた。被爆後の広島復興の礎になった「広島平和記念都市建設法」草案である。「広島を何とかしなくちゃと思いましてね」。東京都世田谷区の閑静な住宅街に住む寺光忠さん(86)は、淡々と46年前を語る。

 1949年2月13日。参議院議事部長だった寺光さんの部屋を、参院議員に伴われた任都栗司広島市議会議長が訪れた。「原爆から四年。復興に向け国会請願を続けているが、採択されても政府は動かん。ぜひ知恵を貸してほしい」。初対面の議長が頭を下げた。

 原爆で壊滅した広島市は、復興財源獲得の国会請願や旧軍用地払い下げ運動を続けたが成果は乏しく、前途は厳しい時代だった。国会運営に通じ、法律に詳しい広島出身の寺光さんに目が向けられた。寺光さんは答えた。「請願は気休めで実効性がない。政府が広島市民の意思に縛られる『法律』を作るしかない」。戦後の新しい憲法と国会法で、地方自治体のための特別法が、議員提案で制定できることを知っていた。

 翌日、広島選出の国会議員らから正式に草案づくりを委嘱された。しかし難問がある。史上初の原爆被災都市とはいえ他の戦災地との均衡をどうするか。まして原爆を落としたのは米国。広島復興のための法律など連合国軍総司令部(GHQ)が許すまい。法案はすべて国会提出前にGHQの事前承認が必要だった。

 「それなら、単なる『復興』の概念を超える、次元の高い理念で広島再建を目指そう」。行き着いたのが新憲法にある「恒久平和」の言葉だった。草案は参院法制局の助言を受け、第1~5次案まで約3カ月間かけて推こうを重ねた。

 寺光さんは旧制広島高校から東大を卒業して司法省入りしたキャリア。古里とは疎遠だったが、被爆3カ月後、夜汽車を降りた広島駅頭の光景が忘れられないでいた。街はまだ死臭が漂っていた。建物はなく、似島まで見通せるほど完全な壊滅に圧倒された。広島のための法案起草は真剣だった。

 成文は7条になった。第1条に「この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする」とある。寺光さんは「この法律のすべてです」と力を込める。「戦災復興にとどまらず、全人類が求めてやまない『恒久平和』の理念を、広島で実現させる。平和都市『創建』に国が協力を惜しまず、市民も精進する」。広島市の請願の狙いが明確に集約され、GHQを納得させ得る内容だった。

 草案ができた時、長崎側が相乗りを求めたが、別の「長崎国際文化都市建設法」を作って広島の独自性を守った経緯もある。曲折を経た特別法「広島平和記念都市建設法」は同年5月10日に衆院、11日に参院で可決。7月7日、国内初の住民投票にかけられ、投票総数約7万8千票の91%の賛成で被爆四周年の8月6日に公布された。草案作りから6カ月。それまでの復興運動のテンポに比べ、急転直下の成立だった。

 昨年11月末、国会で1冊の書類が議員に配られた。同法など全国14の特別都市建設法の事業状況報告書である。年1回、首相が国会報告を義務づけられている。広島市が政令都市になった今も、この法律が生きている証明である。

 自主財源に乏しかった戦後の広島にとって、同法は復興財源を得る重要な意味があった。1950年度から5カ年間に平和記念施設や区画整理を中心に約9億2000万円の国助成があった。計画総事業費からすれば不十分だったが、その恩恵は大きかった。法に基づき国有地も計19件34ヘクタールが公共用地に無償譲与された。故・浜井信三市長はこの法律を「打ち出の小づち」と例えた。

 しかしその無償譲与は、市財政が豊かになったため、1967年の市立高校用地以後28年間、1件もない。広島市内で実施される都市計画事業は、今も必ず「広島平和記念都市計画」と名前がつけられ、国会に報告される。だが補助率は他都市と変わらず、財政上の優遇措置もない。国の行財政改革論議の中で過去3回、廃止論が出たほどである。

 「今、この法律はひん死状態かもしれない。でも死なせたくないんです」。住民投票にかけてまで公布された法律である。復興は果たしたかもしれないが、法の精神がどれだけ生かされているか。寺光さんは不安になる。「困窮時代を脱した今こそ、あらためて法の『理念』をくんでほしい」と期待する。

 弁護士活動の傍ら大学講師をする寺光さんは、憲法講義の際に必ず平和記念都市建設法の理念を語り続けている。

 「広島は原爆跡を見る追憶の街ではない。踏み入れば平和が身にしみて感得できる・そんな都市になれば素晴らしい」。そうした街づくりができているだろうか。広島市は1970年策定の基本構想で「国際平和文化都市」を掲げた。しかし「広島はやはり世界に一つしかない『恒久平和都市』。残念です」とこだわる。

 法制定40周年の1989年、広島市で講演した寺光さんは、聴衆に語りかけた。「法律が残っているのであれば、百万都市の市民が恒久平和の象徴都市の一人である誇りと自覚を持って暮らしてください」


成立目指しマッカーサー将軍と単独会見 故任都栗司・元広島市議

 「マッカーサー単独会見など、父の行動が一つの力になったんでしょうか」。任都栗司・元広島市議会議長の長男で会社役員の暁さん(77)=東京都港区=は話す。東京で大学生のころ、上京して復興運動する父の姿を見てきた。

 1949年2月、任都栗議長はGHQ最高司令官マッカーサーに会った。前年、ABCC用地問題で広島を訪れたGHQのサムス准将に「平和都市再建」の熱意を語ったのがきっかけで、准将の上司を通じ面会が実現した。「司令官は『いいアイデア。しっかりやりなさい』とだけ言ったそうです。でもこの承認が政府を動かす要因になったんでしょう」と暁さん。

 任都栗議長ら広島側のGHQへの働き掛けと寺光さんらの行動が相まって「平和記念都市建設法」が実現した。任都栗議長は生前、座談会で「運動の支えになったのは原爆犠牲者。脳裏に焼き付いたあの悲惨さがあるゆえにエネルギーが持続した」と復興に奔走した気持ちを述べている。


泊まり込みで提案趣旨 広島市長室勤務(当時)の藤本千万太さん

 1949年5月10日、衆院本会議で「広島平和記念都市建設法」の趣旨説明が行われた。その要旨を書いた、当時の広島市長室勤務の藤本千万太さん(78)=広島市安佐南区=は「懸命でした」と振り返る。

 東京都内の旅館で広島関係者が雑魚寝しながら運動を進めた時期。旅館では迷惑がかかるから、深夜、広島選出の社会党参院議員の部屋で1カ月以上、書き続けた。

 実は同法の提出は参院議員の方が積極的だった。衆院は総選挙があって多忙だった面もあるが、参院議員らはGHQの事前承認を受けた上、衆院提出前日の5月9日、発議者百二人で先に参院に提出した。衆院側は急きょ、15人の発議者を集め、同じ内容の法案を翌日提出、委員会審議を省略して即日可決した。参院は衆院から回った法案を11日に可決。自らの提出法案自体は廃案になった。

 法成立をめぐる衆参のさきがけ合戦だが、藤本さんの書いた提案要旨は衆院で読み上げられた。「議員さんが本会議の二、三日前に原稿を取りに来られた。ほとんど目も通さず議場に立たれたのでは…」と藤本さんは語る。

<参考文献>「ヒロシマ平和都市法」(寺光忠著)▽「広島市政秘話」(浜井信三著)▽「広島被爆40年史 都市の復興」(広島市)▽「基町地区再開発事業記念誌」(広島県、広島市)▽「新都市」(財団法人都市計画協会)▽「広島平和記念都市建設法の制定の当時を振り返って」(同)▽「広島新史」資料編2、経済編、市民生活編(広島市)など

(1995年2月5日朝刊掲載)

年別アーカイブ