×

検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <3> 基町再開発

■報道部 福島義文

 原爆で壊滅した広島復興の道のりは、再建に要する財源と心の支えを探る日々であった。そんな苦難の時代、物心両面で光明になったのが「広島平和記念都市建設法」だった。恒久平和を掲げ、国家が復興財源の一部を保証するこの法律は、「ヒロシマ再生」の礎となった。

その存在さえ知らない世代が増える中、法律案起草者の目は、今も広島を見据え続けている。

 広島復興の大事業の1つは同市基町地区の再開発事業だろう。「原爆スラム」と呼ばれた密集住宅街は、いま高層住宅街に一変した。

しかしコンクリートの城の中では、都心の高齢化という新たな都市問題が加速度的に進む。

 平和都市建設のため法律制定に注いだ情熱、そして「戦後」脱却の一大事業に忍び寄る影。広島復興の裏面をみる。


都心に濃く 老いの影 「原爆スラム」再生から17年

 できたての弁当を持ったボランティアの老人会員が公民館を出た。目と鼻の先の高層住宅に向かう。月1回の孤老への配食サービスである。1階の鉄扉を開けた途端、独り暮らしの男性(82)が問わず語りにつぶやき始めた。「半年前、田舎の弟が急死してね。わしもそうなったら…。部屋は人の出入りもないし。最近つくづく心配じゃ」

 広島市中区基町の市営基町高層アパートは、広島県庁や広島城に近い百万都市の都心にある。戦後の密集した老朽住宅を再開発し、高層住宅群がそびえる近代住宅街で今、急激に老いが進む。高齢化率は中国山地の過疎地なみになった。「基町再生なくして広島の戦後は終わらない」とまで言われた一大再開発事業が完成して17年目の姿である。

 戦前、基町地区は軍用施設が並ぶ軍都広島の拠点だった。しかし被爆後の住宅難から公営住宅用地になり、原爆で四散した人や引き揚げ者、市内区画整理の立ち退き者らが次々と流入。太田川左岸の河川敷一帯には不法住宅が密集し、「原爆スラム」とも呼ばれた。既存の住宅地にも不法建築が急増。スラム解消は復興の最後の難事業と言われた。

 基町地区に隣接する中区西白島町の県営長寿園高層アパートには、その河川敷から立ち退いた人が多く移り住んだ。南一号館自治会長の田中義信さん(73)もその1人。1955年に川土手に2部屋と炊事場の家を建てた。同居していた義兄の家が立ち退きで、住む所がなくなったからだ。勤め先が製材会社で材木はすぐ調達できた。「近所でも、晩にコンコン音がして、朝、目が覚めてみりゃ家が建っとった」。

空き地がみるみる詰まる。板を打ちつけただけの小屋のような家。大風が吹けば屋根がはがれ、大水が出れば斜面にある家は川に流された。家といっても据えてあるだけだった。「原爆後の住宅がない時代。住みとうはないが、土手に住まにゃならんかった」

 地区内は軒が接するほど道は狭く、排水設備もない。衛生状態や住環境は悪く、防火の不安も…。「基町は貧民街と言われた。世界にまで知られてね。そりゃ、川向こうから眺めると自分でもイヤになりょうた。家じゃないんじゃもの」と包装材料小売業を営む古本好人さん(77)。1967年、大阪市立大が「原爆スラム」で実施した実態調査では、約890世帯、3千人の住民がおり、うち3分の1が被爆世帯。被爆者の5人に1人が「就職、結婚問題で偏見を受けた」と答えた。「それでも人情があった」と田中さんらは思い返す。生活費や米がなくても近所同士で貸し合って暮らせた。「よそのなべの底まで分かった」。見えもなかった。「今の高層住宅は、戸を閉めたらしまいじゃ。近所の交わりは薄い」

 基町再開発は1969年から10年の歳月と約260億円の巨費をかけて完成した。対象区域約33ヘクタールの不法、老朽住宅を約8ヘクタール内の超高層住宅に積み上げ、環境と装いを一新した。だが現在、基町地区の入居者数はピーク時より3割以上少ない約6900人に減少。65歳以上の老人が約1900人いる。高齢化率27%は市平均12%の2倍を超え、中国山地の広島県山県郡筒賀村に匹敵する。

団地内の基町小の児童数は現在290人とピーク時の3分の1に減った。厚生省の推計では40年以上先の2037年の高齢化社会を先取りする計算だ。都心に出現した超高齢地帯である。

 「まさに老人の街です」。中国大陸から引き揚げ、終戦2年半後から基町に住む自治会長の1人、高下強さん(88)は言う。基町の立ち退き入居者が年を取り、同居の子供も成長して出てしまうからそうなる。人知れず死ぬ孤老も多い。1DK単身部屋が多い自治会では、昨年も老女が死後2日たって見つかった。自治会長の桝田和枝さん(63)は「新聞受けチェックは厳命です。そうしないと不安で」と目配りを欠かさない。

 若い世代の入居を望んでも、公営のため入居者の所得制限が低く設定され、「実際に入るのは老人や障害者、中国残留孤児の引き揚げ家族らがほとんど」と高下さん。老いが進み弱者は増え、コミュニティー活動も停滞する。基町地区社会福祉協議会が、1昨年から買い物の不自由な独居老人を対象に月1回の弁当配食を始めたのも自主老人対策である。

 高層住宅が完成した際、再開発の先例として全国自治体から視察が相次いだ。ヒロシマの戦後をしるした密集住宅街は近代建築の城に変わった。そこに住む住人は「入居時、こんな老齢地帯になるとは思わんかった」と口をそろえる。

 広島市内では現在、高齢社会に備え、老若棟が混在し老人福祉施設も併設した初の複合市営住宅の建設構想が中区江波地区で進んでいる。住宅が「供給」の時代から「質」の時代に変わる今、立地のいい基町高層住宅群が百万都市機能の中で、どう位置付けられていくのか。「都心の活性化を視野に、基町地区全体の再生計画を早急に策定しなければ」と市都市整備局建築部は強調するが、明確な展望はまだ描き切れていない。


強制執行なく不法住居区整備

 被爆後の広島復興は、旧軍用地なくしてできなかったとも言える。「広島発祥の地」である広島市基町地区は、西部総軍司令部などの軍用地区だったが、戦後、人口復帰や流入に伴い住宅用地に転用。1946年6月から市、県、住宅営団が次々と住宅を建設、一大住宅地に変わった。

 特に相生橋・三篠橋の太田川左岸1.5キロ間は河川敷を中心に、公園予定地にも不法建築が密集。不法住宅は1960年に900戸、1970年ごろには1000戸を超えた。住環境の悪化に加え低所得者、在日外国人も多く、戦後の都市問題が集約された形とまで言われた。

 1957・1968年度に市、県営の中層住宅九百三十戸が完成したが、地区全体の不良住宅解消には至らず、新たな再開発計画が模索された。

 1969年3月、基町地区約33ヘクタールに「住宅地区改良法」適用が決定、広島県、広島市が合同で一大再開発に着手した。1978年3月までに基町(市営)、長寿園(県営)に最高20階の高層住宅計4566戸が完成。立ち退き者用改良住宅と一般公営住宅がある。

 再開発事業で密集住宅群を合法、不法の区別なく整備したこの事業は、新たな住環境を提供したほか、広範な対象地区を強制執行なく遂行した異例の再開発でもあった。


≪中国新聞 あの日再録 67.8.6≫ 基町最大の大火 焼け出され8・6迎える

 基町地区の通称「原爆スラム」一番の大火だった1967年7月27日の火災は、被爆22周年の10日前だった。被災住民は近くの小学校に避難、家を失ったまま8月6日を迎えた。その日の表情である。

  ◇   ◇

 「原爆で三男と、長男の嫁が死に、家をなくした。1939年には二男の経営するバーが焼け、それに今度の大火事」。いまひとりぼっちのAさん(77)はさとりきった表情を見せる。夫は数年前になくなり、子供たちは引き取ってくれない。…原爆の犠牲になった身内の位ハイも灰に変わってしまった。神経痛をやわらげるために、講堂の板の間に足を投げ出して、ヤイトをすえるAさんはさびしそうだ。「スラムには9年前にはいったんよ。板張りの家じゃったが、ブドウだなの間から、広島城が見えたんよ」

 Bさんら10人は6日朝、原爆慰霊碑におまいりする。スラムの大火でBさんらは、すべてをなくしたかのように見えたが、原爆犠牲者へのBさんらの祈り・平和の願いまでは奪い取られなかった。

 「ここでは8・6の話など出ません。家もないのになにが平和でしょう」。Cさん(52)のようにふんまんを投げつける被爆者も多い。

※「スラム」は偏見を助長する不適切な言葉として、現在、新聞では使っていませんが、「原爆スラム」は復興期の広島を理解していただく意味で使用しました。

<参考文献>「ヒロシマ平和都市法」(寺光忠著)▽「広島市政秘話」(浜井信三著)▽「広島被爆40年史 都市の復興」(広島市)▽「基町地区再開発事業記念誌」(広島県、広島市)▽「新都市」(財団法人都市計画協会)▽「広島平和記念都市建設法の制定の当時を振り返って」(同)▽「広島新史」資料編2、経済編、市民生活編(広島市)など

(1995年2月5日朝刊掲載)

年別アーカイブ