×

検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <5> 初期の被爆者運動

■報道部 福島義文

 5年前の被爆45周年。被爆者の全国組織である日本被団協が作ったポスターには全く標語がない。「十四歳の爪(つめ)」の見出しで、1つの被爆死が日英両語で画面いっぱいに書かれる。

 焼けただれ、水を求める旧制中学の少年。母は心を鬼にして拒む。さする腕から皮膚がはがれ、爪が抜ける。乾きに耐え切れず、少年はその指先にしみ出る体液をすすり、翌日、14歳の命を絶たれた。そんな話だ。

 やり場のない憤怒の中から、被爆者の運動は始まり、今に続く。当初、貧困や放射能障害に苦しみながら医療や生活援護を求めた。恵みではない。体や暮らし、人間らしさまで奪った原爆への抵抗であり、その責任をただす闘いでもある。

 運動を組織化した日本被団協は、原水禁運動の分裂にも統一を守り、被爆者援護法で国家責任を問い続け、そして新たな老いと向き合う。標語のないポスターの無言の叫び。「再び被爆者をつくるな」。核のなくなる日まで、それは続く。


ケロイドさらし戒め 「原爆1号」の吉川清さん

 背中一面のケロイドは、松かさを張り付けたように盛り上がっていた。広島赤十字病院の講堂。この入院患者を囲む米国の報道・科学者視察団は、驚きとともにフラッシュをたく。

 「ATOMIC BOMB VICTIM NO1 KIKKAWA」。被爆から2年後の1947年4月30日。吉川清さんは以来、「原爆1号」と呼ばれ、ときには「平和屋」と言われながらも、国内外から視察者がある度に請われて背中を見せ続けた。

 「病室に帰った主人は『悲しい』とつぶやいて…」。妻の生美さん(73)=広島市中区江波東1丁目=が思い出す。背中を見せるよう病院に頼まれた時、初め猛反発した。「米国が落とした原爆で苦しんどる。なんで体まで見せにゃいけんのか」。憤りと屈辱を抑えた後の撮影だったという。

 「心で泣きながら、ケロイドをさらして。被爆者の苦しみが二度と起きないようとの戒めの気持ちだったんでしょう」。今年1月下旬に9回目の命日が過ぎた夫の遺影が、壁から生美さんの横顔を見詰める。

 白島中町の自宅玄関に入った瞬間、せん光を浴びた。広島電鉄の防空当番の夜勤明け。大やけどした背中や両ひじの皮膚は、ぼろ切れのように垂れた。可部の寺で、やけどの妻と2カ月余の療養。昼夜なく、近くの河原で人が焼かれた。秋口、動けるようになった妻がイモの茎や葉を空き缶で煮て、命をつないだ。

 1946年2月に入院した広島赤十字病院は、窓にむしろが下がり、冬には病室に雪が積もった。妻の山の木を売った後、生活保護を受けながら、5年余の入院中に16回も皮膚移植などの手術を受ける。「薬を変えて」と頼むと「生活保護患者に高い薬は使えない」と突き放された。病院でさえ貧乏のみじめさがつきまとう。

 1951年春、夫婦は小さな柳こうりを抱え、今の原爆慰霊碑近くのバラック街で野宿していた。同病院で環境改善を訴えたら退院させられ、行き場所がなかった。やっと知人宅に間借りし、仕事を探したが職はない。無理すると疲れてよく休む被爆者は「ブラブラ病」とさえ言われた。

 職探しに疲れた吉川さんは、夕方になるとよく元安川の川べりで原爆ドームを見上げていた。その後ろ姿に「ドーム横で土産物屋でも」と声をかけてくれた自転車卸商がいた。石炭箱を2つ並べ、自転車商が用意してくれた絵はがきなどを売り始めた初日、250円の売り上げがあった。日雇い1日分の賃金。夫婦は米と野菜を買い、被爆後、初めて腹いっぱい食べた。

 時代はまだ占領下であった。朝鮮戦争ぼっ発に伴い前年の広島市の平和祭は開けず、「赤攻撃」は厳しさを増していた。被爆者の間には放射能障害や貧困に苦しむ人が多かったにもかかわらず、被爆実相の調査、記録などには占領軍の厳しい目が光った。吉川さんは被爆者を訪ね歩き始める。

 「『被爆者は弱い立場じゃ。市は復興に力を入れとるが、被爆者は置き去り。それなら一人より二人、力を合わせんと』が主人の口ぐせでした」と生美さん。電車にも乗らず、靴をはきつぶして被爆者の家を回り、生活状況を聞いた。

 同年8月末。広島城の堀端に借りた小さな倉庫で、吉川さんら被爆者約30人が「原爆傷害者更生会」を結成する。広島では初の被爆者の組織だった。生活問題や被爆者の経済自立などを話し合う集まりだったが、月3回の夜の会合には必ず広島西署(現広島中央署)の警官が張りついた。「朝になったら必ず『夕べは何の話?』と聞かれて…」。非合法活動と心配した家主は立ち退きを求めた。

 1年後の8月、吉川さんは土産物屋に出入りしていた詩人峠三吉らと新たな被爆者組織「原爆被害者の会」をつくる。市内の知恩会館には約50人の被爆者が参加。事業計画は治療援助、生活困窮者への特別援助、平和活動などだった。計画には、おぼろげながら治療費の国負担や無料検診、被爆者の実態調査といった、その後の被爆者運動に盛られる柱の原型がのぞいていた。

 同会事務局長で当時広島大生だった故・川手健さんは、会の位置付けを手記に概略こう書いている。「発足とはいえ『組織を作ろうの合図』程度だった。しかし組織も持たず苦しみ続けてきた、よるべない被爆者が立ち上がる闘いの過程でもあった」と。

1952年4月に日米講和条約が発効。戦後7年間の占領が解け、原爆の実相を見詰める動きが本格化するなど、やっと時代は回り始めていた。

 吉川さんらの活動は、やがて他の被爆者組織の発足を促し、各組織が1本化した広島県原爆被害者団体協議会(県被団協・1956年5月)、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協・同年8月)の結成につながっていく。県被団協の誕生から3カ月後、広島市で開かれた同県原爆被害者大会はこう大会宣言した。「私たちは今こそ勇気と確信をもって、皆さんの歩みの先頭に立って生きてゆける自信を持ちました」。被爆から11年目の夏であった。

 しかし吉川さんは、新しく生まれ、大きくなる被爆者組織の中心からいつも外にいて、9年前、脳卒中による8年余の闘病生活の末に74歳で亡くなった。この間、原爆ドーム横で12年間、観光客や修学旅行生らにケロイドを見せながら、原爆を告発し続け、「原爆を売り物にする」と非難もされた。「主人はよく『この体をまどうてくれ』と言ってました。ごう慢で意志を貫く生き方が誤解された面もあった気がします。でも、主張していたことはいつも心からの叫びでした」と生美さんは夫を語る。

 「わしは一生、平和運動をする。そのつもりでおれ」と言った夫は、亡くなる4カ月前、生美さんに「よう頑張ってきたの。のんびり生きていけよ」と言い残した。夫婦に子供はない。夫の死後、語り部を始めた生美さんは必ず、ドームを見上げるかつての土産物屋の跡地で話をする。夫婦の涙がしみた場所だからだ。


「原爆は違法」高らかに 東京地裁の「原爆訴訟」判決

 原爆投下は国際法違反・。1963年12月7日、東京地裁であった「原爆訴訟」の判決は、原水爆禁止や被害救済を求める被爆者運動にとって大きな支えとなる画期的な裁断だった。

 訴訟は広島、長崎の被爆者5人が原爆で受けた損害の賠償を国に求めた賠償請求訴訟だが、原告側代理人だった故・岡本尚一弁護士(大阪弁護士会)の真の狙いは「原爆投下の違法性」を問うことだった。

 岡本弁護士は、日本の戦犯を裁いた極東軍事裁判で元陸軍省軍務局長の弁護を引き受けたが、連合国側が原爆投下に何の反省も示さなかったことから、原爆訴訟を決意した。「貧困や世の偏見に沈む被爆者を説得して回り、訴訟承諾を取られた」。提訴3年後に岡本弁護士は67歳で急病死したが、後を継いだ三原市出身の松井康浩弁護士(62)はそう振り返る。

 提訴から8年ぶりに出た判決で、古関敏正裁判長は賠償請求権こそ「国際法、国内法上も個人にはない」と棄却したが、原爆投下について厳しく断罪。「原爆は無防守都市に対する無差別爆撃で、国際法上、違法な戦闘行為。国は自らの権限と責任で始めた戦争に対し、十分な救済策をとるべき」と述べ、「本訴訟をみるにつけ政治の貧困を嘆かずにはおれない」と結んだ。

 退官後、東京で弁護士をする古関さん(81)は「判決の見解は今も変わらない」と言葉少なに語る。松井弁護士は「司法が原爆を裁いた判決は後にも先にもこれしかない。国家補償の精神に基づく被爆者援護法の運動の基礎理論にもなった」と強調している。

<参考資料>「原爆一号」といわれて(吉川清著)▽原爆に生きて(原爆手記編纂委員会)▽原爆裁判(松井康浩著)▽原爆被爆者の半世紀(伊東壮著)▽被爆の思想と運動(同)▽平和を求めつづけて・広島県被団協30年の歩み(広島県被団協)▽日本被団協30年のあゆみ(日本被団協)▽首都の被爆者運動史(東友会)など

(1995年2月19日朝刊掲載)

年別アーカイブ