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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <6> 原爆孤児

■報道部 西本雅実

 原爆は一瞬のうちに人の命を奪っただけではない。生き残った者にも過酷な生を強いた。とりわけ孤児や乙女の戦後は苦難に満ちた日々であった。広島市民の多くが平穏な生活を手に入れた後も、その人たちには「原爆」の2文字が重くのしかかった。心身とも深い傷を負い、逆境に立ち向かいながら、孤児や乙女の多くは世間の心ない視線の中で、いつしか口を閉ざすようになった。

 「今さら話して何になる」「原爆とマスコミはもうこりごり」。かつて原爆孤児、原爆乙女と呼ばれた人たちに接触すると、取材を拒む人が際立った。50年たっても、胸にうずく傷はいやされていない。こうした中であえて、日本と韓国で2つの戦禍を生き抜いた1人の孤児と、米国に渡りケロイド治療を受けた「ヒロシマ・ガールズ」を追った。最も弱い立場にある者をさいなむ戦争、原爆を憎むからである。


流転の青春生き抜く 原爆孤児の友田典弘さん

 捜し訪ねたその人は大阪市城東区に住んでいた。細面の顔は、この12月に還暦を迎えるとは見えないほど若々しかった。

 原爆孤児となって韓国へ渡り、そして15年ぶりに祖国へ…。幾多の苦難、流転の青春にも負けなかったからこそ、友田典弘さん(59)はあますことなくその半生を語ってくれた。

 「日本に戻って、おばあさんが拝んでいる仏壇を見たら、僕もその中にいてますねん」。そう笑いながら、一枚の写真を取り出した。引き伸ばした白黒の写真の中には、母タツヨさん=被爆死当時(30)、弟幸生さん=同(8つ)=と一緒に友田さんも納まる。遺骨もない、ありし日の家族の肖像である。

 幼いころの思い出は、爆心地に詰まる。生家は広島市大手町5丁目。父多市さんは早く病気で亡くなったが、働き者の母がいた。洋服仕立ての商売を継いだタツヨさんは、時間をさいては自宅そばの元安川でボートに乗せてくれた。夏は産業奨励館(原爆ドーム)を見上げ泳いだ。学校は歩いて10分足らずの袋町小。

 原爆はその袋町小で遭った。「4年生やった。朝礼に遅れて…。げた箱のある地下室へ急いで下りた時…」。気がつくと、明かり窓のガラス片が突き刺さる右足を引きずり、地下室にいた級友と炎の中を逃げていた。校庭にいた弟たちは黒こげだった。

 何日も、母の姿を求めて死臭の街をさまよった。がれきと化した自宅跡も掘った。途方に暮れ、自宅2階に間借りしていた「金山三郎」さんを捜した。子供の目には40歳前後に映ったその男性は、勤め先で被爆していたが、無事だった。

 「金山」さんと、川土手にバラックを建て住んだ。死者・行方不明者2000人余をもたらしたこの年9月17日の枕崎台風が、そのバラックも押し流す。

 「僕一人を残すのはかわいそうやと。それで連れて帰ったんちゃいますか。生きていくには付いて行くしかなかったんですわ」

 「金山」さん、本名キムさんは日本が植民地支配した朝鮮半島の出身だった。キムさんの祖国が海の向こうとは知らなかった。

 門司で船に乗り込み、鉄道で釜山からソウルへ。要所要所にあった検問は、キムさんの言い付け通り「アボジ(お父さん)」の単語だけを繰り返した。子供心にも、ばれたらどんな目に遭うか想像がついた。

 金炯進(キム・ヒョンジニ)。それが友田少年の新たな名前になった。

 しかし、身を寄せた「アボジ」の兄夫婦一家は、日本人の子供がいることでいさかいとなった。学校に行っても、日本人と分かった途端にいじめられた。

 「アボジ」は兄の元を出る。広島で習い覚えた靴づくりを始め、結婚。

 「奥さんも初めはかわいがってくれたんやけど、実の子ができると…」。居づらくなって飛び出した。13歳の冬。もう会話には困らなくなっていた。

 ソウルを流れる漢江に浮かぶ汝矣島(ヨイド)。国会議事堂や高層ビルがそびえ建つ汝矣島は、駐留米軍の飛行場だった。そこで米兵相手に靴磨きをし、夜は橋の下でかますにくるまった。人づてに「アボジ」は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ行ったと聞いた。

 国籍は違っても、日本の戦争で親を失った仲間ができた。市場で食堂の使い走りをして食事にありついた。その一見平穏な日々が、あっけなく砕けた。1950年6月から3年余続いた朝鮮戦争である。

 北朝鮮軍は中国人民義勇軍の支援も受け、2度にわたってソウルを占領する。ヒョンジニ少年は畑の芋で飢えをしのぎ、南部大邱まで逃げた。死者は市民だけで100万人を超えた。

 友田さんの健在が日本に伝わったのは1958年。広島市や袋町小などに「故郷ガナツカシクテ…」というカタカナ交じりの手紙が舞い込んだ。国内では「もはや戦後ではない」と言われた時代である。

 「韓国から望郷の訴え」。記者が持参した1958年11月7日付夕刊の中国新聞コピーを手渡すと、友田さんの顔に苦笑いが浮かんだ。

「ほんまは人に書いてもろたんですわ」。独り異国で生き抜く日々。そのころには日本語は全く忘れていた。

 韓国でいう「動乱」後、再びソウルに落ち着いた。新聞配達先のパン屋の主人に仕事ぶりが認められ、20歳を前に住み込みの職を得た。

店が休みの日は、韓国外務部に足を運び、日本への帰国を訴えた。しかし、日本人である証明は何もない。韓国の国籍もなかったが、一時は兵役にもとられた。

 半ば帰国をあきらめていたところ、市場で働いていた少女とその母が手を差し伸べてくれた。「女の子の名はキム・チェスニ。僕より3つ下やった」

 身の上を知ると、年老いたその母が日本語で筆をとった。30通は下らない手紙による訴えが、国交のない日韓両政府の扉をこじ開ける。

広島、ソウル両市長の奔走もあり1960年6月ようやく帰国がかなった。

 広島に戻ったとはいえ、身内は当時83歳の母方の祖母くらい。広島市の紹介で、市内の羊羮(ようかん)会社で自立を目指したが、1年足らずで辞めた。不満があったわけではない。「広島におると、どうしてもお母さんや弟がいたころを思い出す」。その気持ちを振り払おうと大阪に出た。

 1965年に妻の佳世子さん(55)と結婚した。近所の人の仲立ちだった。「この人は、子供が生まれた後になって『ほんまは原爆を受けて韓国に…』と言うんですさかい」

 「わしも30やろ。結婚できんのやないかと、焦っとったんや」

 当時を振り返る2人の表情に屈託はない。在日韓国・朝鮮人が全国最多の大阪の街は、友田さんの気性にも合った。

 履歴書に空欄がある分、酒もたばこもたしなまず身を粉にして働いた。妻と4男1女の子供を励みに、勤めていた工場が倒産する不運も乗り越えた。

 名刺はいま、「三幸厨房係長補」とある。レストランや病院の調理場用ステンレス加工工場。住まいは2Kの市営住宅。「子供5人を育てるのに精いっぱいの人生やったな…」。同居は26歳の息子だけとなり、親としての寂しさがよぎる年齢になった。

 それでも「手紙を書いてくれたあの家族のおかげで、日本に戻れた。韓国の弟にも頼んで捜してもらってるんですわ」。弟とは、ソウルのパン屋で一緒に働いたころの同僚。11年前に韓国を再訪して以来たびたび足を運ぶようになり、互いに実の兄弟と呼び合う交際を続ける。

 「弟が兄貴は韓国人よりも言葉の発音がええと言う。できたら向こうのテレビに出たいんです」

 帰国のきっかけをつくってくれたキム・チェスニさん親子の行方をつかみたい。かつての仲間がテレビを見て名乗り出てくれるかもしれない。そう思うからだ。

 「戦争の残酷さ、親がいない孤児のつらさはどの国でも同じ。原爆に限らない。実際に経験した者じゃないと分からんのとちゃう? 嵐君もそうやった」

 その言葉が、胸にこたえた。嵐貞夫さん。あの袋町小地下室から手を取り合って逃げた級友の1人である。一昨年11月、すし店を営む島根県玉湯町で亡くなった。嵐さんも原爆で家族全員を失った。

 「まさか死んだなんて…。確か25年前に広島で会い、『遊びにおいで』と言われたけど…あのころは…」。目頭を押さえ立つと、隣の台所で水音がほとばしった。


広島戦災児育成所 昨年に50回忌 全国から集う

 原爆孤児たちが共に生き抜く「家庭」だったのが、広島戦災児育成所。米国の市民が物心両面から手を差し伸べた「精神養子(モラル・アダプション)」運動も、ここから始まった。

 その育成所は原爆投下から4カ月後、現広島市佐伯区皆賀2丁目に開設される。浄土真宗本願寺派の布教使だった山下義信さんが復員後、妻の禎子さんと私財を投じ造った。1953年1月、市に移管されるまで171人が身を寄せた。子供たちは2人を「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼んで大きくなった。

 育成所出身の人たちが今も異口同音に思い出すのが、山下夫妻や保母たちの愛情。そしてしつけの厳しさ。所内にあった童心寺の鐘で起床。毎朝お経をあげてから学校に通った。ゼロからの出発だった社会人生活でも、「童心会」で培った心の教えを支えに、それぞれの家庭を築いていった。

 昨年8月6日。全国に散らばったその「童心会」の仲間約50人が久しぶりに顔をそろえた。広島市中区の報恩寺で両親の50回忌と「おじいちゃん、おばあちゃん」の法要を営んだ。

 住職の久保田悟城さん(80)と妻の喜美子さん(68)は共に元育成所職員。大手町国民学校教諭だった喜美子さんは、疎開先から引き取り手のない児童を連れて育成所に入った。「去年、あれほど集まってくれるとは…。全員よく声もそろって、いいお勤めになりました」。喜美子さんも中区宝町で両親ら家族7人を失った原爆被災者である。

<参考文献>「人間の選択」(ノーマン・カズンズ)▽「ヒロシマの外科医の回想」「平和の瞬間」(以上、原田東岷)▽「恵子ゴー・オン」(笹森恵子)▽「文芸ひろしま」(広島市文化新興事業団)▽「精神養子The Moral Adoptionについて」(山本正憲)

(1995年2月26日朝刊掲載)

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