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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <7> 原爆病院

■報道部 岡畠鉄也

 個人的な体験だが、数年前、子供が高熱を出し腹部に紫斑(しはん)ができた。医師は白血病の疑いがあると言う。私も妻も被爆二世。とっさに「原爆」の二文字が頭をよぎった。数日後、血液検査で「シロ」と判定されたが、紫斑の原因は不明のままだ。

 放射線被爆による遺伝の影響は、現段階ではみられないというのが医学界の大勢である。しかし、被爆者とその子孫は体に変調をきたすと原爆との関連を疑ってしまう。それを感情論と一蹴(いっしゅう)するには、ヒロシマは原爆の底知れぬ恐怖を刻み込み過ぎた。

 白血病で死亡した被爆二世の少年と原爆病院で被爆者治療にあたった医師を中心に、被爆者らの心のひだに積もった放射線の影をみる。


被爆者側に立ち治療 石田定医師の見た原爆病院

 思いつめた表情の若い女性が立っていた。広島原爆病院の看護婦詰め所。カルテに目を通していた石田定医師は思わず顔を上げた。

 「あの人の病名は何ですか」。ポツリと聞く。被爆者検診で白血病が見つかり入院した24歳の青年のことである。「妹さんですか」と尋ねた。彼女は首を振る。病名を肉親以外に漏らすわけにはいかない。肩を落とし部屋を出る女性を目で追い心の中でつぶやいた。「恋人なんだろうな。かわいそうに」

 3カ月後、その年の暮れに青年は死亡。彼女も1週間後に睡眠薬を飲み自殺を図る。春には結婚する予定だった。「ショックだった。病名を告げていても2人の運命が変わったわけでもないのだろうが…」。石田医師の脳裏に30年前の痛恨事がよみがえる。悲恋は後に吉永小百合、渡哲也さん主演の映画「愛と死の記録」になる。

 原爆病院にはこんな人間ドラマがいっぱい詰まっている。死の前日わが子に幼稚園の制服を着せ、「夕焼け、小焼け」を一緒に歌った若い母親もいた。石田医師は25年間、そんな光景に立ち会い、原爆医師としての心にヤスリをかけた。診察・治療した被爆者は延べ30万人を超える。

 被爆者の治療が嫌で仕方がなかった。九大医学部から1954年に広島市民病院に来た石田医師は、直接の病気のほか手足のしびれ、目まいなど、さまざまな症状を訴える被爆者に当惑した。注射針やメスを入れると跡がケロイド状になる。「先生がこんな体にした」と詰め寄られたこともある。

 「こんな男が原爆病院に行くんだから運命は皮肉。『もっと勉強せえ』ということだったのでしょう」。石田医師は1957年、前年に開設された原爆病院に赴任した。院長の重藤文夫氏は広島赤十字病院副院長時代に被爆、自ら傷つきながらも被爆者医療に献身した権威である。彼との出会いが石田医師の人生を決めた。

 「とにかく大きな人だった」。石田医師は振り返る。院長回診。迎える患者の目が違った。手を合わせ拝む人もいる。なぜなのか。確かに彼は原爆症の権威である。それだけか。速く回ることから後に「ウイスキー回診」と、あだ名される重藤院長の駆け足回診に同行しながら石田医師は考えた。

 「被爆者の側に立て」というのが重藤氏の口癖。内外の訪問者にも時間を削って応対し、被爆者の苦しい状況を訴える。「被爆者は原子炉の中に投げ込まれたようなもの」。上手とは言えない英語を繰り返す院長の姿に、石田医師は原爆への怒りをみた。患者の目が違う疑問が解けた気がした。

 石田医師は患者とじっくり対話することから診察を始めた。言語に絶する惨禍を体験し、原爆症に対する不安が強い被爆者には心の傷を受けている人が多い。不安解消こそが医療の第一歩だと考えた。1964年の北海道への出張検診でその思いは一層強まった。

 被爆した状況をまず聞く。大量の放射線を浴びた被爆者の診察に状況把握は欠かせない。すると被爆者は「広島弁か、なつかしいのお」。広島を遠く離れ被爆者であることを口に出せずにいた人も多い。検診が終わると安心した表情で帰って行く。「精神安定剤のかわりだな」と思うと、自然に笑みがこぼれた。

 北海道への出張検診は翌年も続いた。「先生、来年も」と手を握る被爆者の目が院長回診で見た患者の目と同じ。石田医師は重藤氏に一歩近づけたことがうれしかった。

 北海道をきっかけに出張検診は愛知、富山など8県に広がる。復帰前の沖縄、1971年からは韓国にも出かけた。

 だが、出張検診の度に疑問が頭をもたげてきた。ことあるごとに「広島の専門医を呼んでいる」を言い訳にする行政。全国どこに住んでいようと、被爆者は十分な治療を受ける権利があるはず。「私のやっていることは被爆者行政の貧しさを覆い隠す免罪符になっているのではないか」。10年を区切りに韓国を除きすべて断った。

 1980年暮れ、原爆被爆者対策基本問題懇談会(7人委)の意見書を見て「国は被爆者から逃げた」と石田医師は思った。意見書は一般戦災者との均衡を強調していた。

 しかし…。原爆投下から20年もたって白血病で死んだ青年。その跡を追った女性の悲劇も一般戦災者と同じなのか。「白血球よ増えないでおくれ」と悲痛な手記を残した女性も、仕方のない死だったのか。怒りが体のしんを熱くした。

 それから1年の間、石田医師は原爆医師としての情熱を失っていくのが自分で分かった。1982年春、56歳で原爆病院を辞める。定年まで10年近く残していた。「先生も逃げるのか」。患者の言葉がつらかった。

 故郷・呉市に近い安芸郡音戸町の音戸国保病院長に赴任した。が、そこでも被爆者検診を頼まれる。「被爆者が苦しんでいるのにボっとしているわけにはいかないか…」。原爆病院ほど生の形ではなくても、被爆者医療から逃げ切るわけにはいかなかった。

 石田医師は今年70歳になる。4年前の春、広島市南区旭1丁目で妻が開業している医院に戻った。時に広島県健康福祉センターなどへ被爆者検診に出かける。今でも対話から始める診察は変わらない。「でも今の保健所などの検診は日に100人以上も診なければならない。とても被爆状況を聞く余裕はねえ…」。石田医師は顔を曇らせる。

 今年は韓国に出かけるつもりだ。昨年、原爆病院時代に渡韓治療した被爆者と広島市内で偶然出会った。彼はこう言った。「先生、みんな待っていますよ」。その言葉に、石田医師はあらためて思った。被爆者がいる限り原爆医師の闘いは続く、と。


≪略史≫ 原対協と日赤 建設めぐり綱引き

 ビキニ環礁の米水爆実験による第五福竜丸被災(1954年)が引き金となって、被爆者への援護要求が全国的なうねりとなって広がった。原爆症専門の病院をという被爆者の声を受け、翌年、日本赤十字社がお年玉はがきの益金で原爆病院を広島、長崎に建設する計画を発表する。

 地元広島には行政や医療関係者が組織した広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)の治療センター構想があり、日赤と原対協の綱引きが始まった。温厚な大原博夫広島県知事が机をたたき「(建設を)やるのか、やらないのか」と怒鳴るシーンもあったという。

 結局、厚生省の調停を経て(1)広島赤十字病院敷地内に建設するが、独立した病院とする(2)地元に運営委員会を設ける・などで合意。翌1956年9月、ベッド120床の「広島原爆病院」としてスタートした。医師の大半が日赤病院との兼務という事情もあり「開院から2カ月になるのに入院わずか18人」などの批判も浴びた。1967年には別館が開館し170床体制になった。

 原爆という名をつけた病院は世界に2つしかない。その性格から被爆者治療に全力を尽くすとともに医療データを後世に残す使命を負う。

解剖率は日本でもトップクラスだ。そのためには収支を犠牲にすることもやむを得なかった。

 加えて被爆者の高齢化に伴うベッドの回転率も悪く、1972年には累積赤字が1億円を超える。国、県、市の三者が医療器具の購入などに限って補助を始めたのは1974年だった。

 こうしたことから1988年には広島赤十字病院と合併、名称も「広島赤十字・原爆病院」と改め、経営も一体化した。

<参考文献>原爆放射線の人体影響1992(放射線被曝者医療国際協力推進協議会)▽広島新史市民生活編(広島市)▽ぼく生きたかった 被爆二世史樹ちゃんの死(竹内淑郎編)▽ヒロシマ母の記(名越操)▽被爆者とともに 続広島原爆医療史(広島原爆障害対策協議会)▽ヒロシマ医師のカルテ(広島市医師会)

(1995年3月5日朝刊掲載)

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