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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <8> 原爆手帳

■報道部 福島義文

 詰めかけた被爆者は、一様に係員の手元を食い入るように見詰めていた。その視線の先に原爆手帳があった。はがき大の小さな手帳に寄せる被爆者の気持ちを、一枚の写真は切り取っている。「原爆医療法」施行により、初日に交付された原爆手帳は「広島市内で1850人」と中国新聞は伝えた。38年前のことである。

 熱線や放射能の後遺症にあえいだ被爆者にとって、叫びに近い訴えの末に得た援護の法律。埋まり切らぬ「死者への償い」はあるにせよ、その後の「原爆被爆者特別措置法」と合わせた原爆二法で医療と福祉援護の道は徐々に開かれてきた。今年7月には両法を一本化した「原爆被爆者援護法」も施行される。

 被爆患者を励ます病院訪問など民間の慈善、支援活動も、行政のすき間を埋めて温かい。

 熱い視線の中で発行された原爆手帳を、被爆50年目の今も求め続ける被爆者がいる。遅すぎる申請やその支援運動の裏に、人知れぬ原爆人生が見え隠れする。


被爆のあかし 今も求め 証人捜し支援の竹内武さん

 髪が抜け、歯ぐきから血が出る。体に紫色の斑点(はんてん)…。被爆者の急性症状の話が流れ始めていた。夫も広島で被爆した。「大丈夫かしら」。戦後、間なし。新妻は寝入る夫の髪を、そっと引っ張ってみたこともある。

 江津市川平町の島津恒雄さん(74)克恵さん(73)夫婦。それから二十数年後、被爆を口にしなかった夫が、妻の説得で被爆者健康手帳の申請手続きを始める。「しかし被爆の証人がなくて…」

 報道陣に配られた資料には、島津さんら被爆者3人の名前が並んでいた。広島市役所旧庁舎3階の市政記者クラブ。広島県被団協の竹内武さん(67)=広島市西区己斐本町1丁目=が訴えた。「原爆手帳の申請に必要な証人がいない。証人捜しに協力をお願いします」。1972年7月。「被爆のあかし」である原爆手帳交付の支援運動として、県被団協が始めた初の被爆証人捜しである。

 原爆医療法(1957年)に続き、原爆被爆者特別措置法(1968年)が施行されて4年。年月が経るに連れ、原爆手帳の取得に必要な2人以上の証人を捜し出すのが難しくなっていた。

 「初めてできた原爆医療法は、そりゃ喜びでしたよ」。竹内さんは率直に評価する。この法律で被爆者に原爆手帳が交付され、健康診断と医療費が無料になる医療給付への道が開かれた。ビキニ水爆被災による第五福竜丸の久保山愛吉さんの死が放射能の怖さを教え、被爆者らの切実な訴えで、政府がやっと重い腰を上げた法律だった。

 原爆手帳も当初は申請すればすぐもらえた。被爆の証明に手間はかからなかったし、審査も容易だった。証人捜しを依頼する手紙が竹内さんのもとに舞い込み始めるのは1965年を過ぎたころからである。教師の組織を通じて依頼が来た島津さんも、そうした1人だった。

 中国地方一の大河、江の川から少し山際に入った自宅で、島津さんが話す。「被爆までわずか4日間という短い広島滞在がネックでした」。国民学校の教師だった島津さんが、広島工兵隊に入隊したのは1945年8月2日。白島国民学校で部隊移動の待機中、原爆が落ちた。

 室内にいて無事だったが、黒い雨を浴び、太田川べりで死体の山を見た。しかし、白島の位置も市街地の地理も覚えているはずがない。

部隊長の名前すら定かでない。肝心の軍歴書も島根県庁が1956年冬に全焼し、存在しなかった。

 原爆手帳の申請は、妻の克恵さんの方が積極的だった。近所の被爆老夫婦らが「年月がたつと取りにくい。早いほうがええよ」と度々、口添えしてくれた。だが被爆体験の詳細を家族にも語らずにきた夫は、乗り気でなかった。

 「何より娘2人の結婚など将来に差し障ると…。幸い自分も元気だったし」。漠然とした不安に、あえて自らを「被爆者」とは明かしたくなかった。「私らも被爆二世? 大丈夫かね」と娘らが漏らしているのも知っていた。

 そのころ新聞に被爆相談の記事が載った。克恵さんが手紙を出し証人捜しに結び付いた。妻の心遣いに島津さんもやがて本気になる。

上の娘も嫁いだ。公開後、たくさん情報が届いたが、記憶はなかなか一致しない。「虚偽の申請になっては」と律義に証人を待つ。やっと一緒に避難した隊員が見つかり、申請したのは公表から5カ月後だった。

 島津さんは今、目の水晶体混濁で健康管理手当を受ける。だが、取得から退職までの7年間、健康診断こそ受診したものの手帳は使わなかった。「恩恵はあるが、生死の境を生き延びた歴史に裏打ちされた手帳」。安易に使いたくなかった。

 島津さんをはじめ、これまで証人捜しを一手に引き受けた竹内さんは「被爆者の心の支えに」の一心で相談に応じてきた。自身も障害を持つ。

 生後1カ月で小児まひになった。左足が細く、5センチ短い。幼いころ、いつも突き転がされては泣いて帰った。その悔しさの上に原爆が落ちた。己斐郵便局に勤務当時のこと。けがはなかったが、不自由な足で火の海から救い出した中学生は、数日後に息絶えた。

 「私は自分の足がよかった時代を知らない。被爆者は健康な時期があるだけに悩む。後で障害を負った人のほうが苦しい。自分はまだ幸せなんじゃ」。そう言い聞かせながら、被爆者と向き合ってきた。

 2年前に相談業務から正式に退くまで、22年間に手掛けた被爆証人捜しは815人にのぼる。未公開を含めれば、相談者は5000人を超える。その1人ひとりについて、戦友会を訪ね、学校や職場を回り、こつこつと証人を捜した。年を経るに従って、依頼者は直接被爆者から入市被爆者に移り、それだけ証人は見つかりにくくなったが、粘り強い調査で、ほぼ全員の手帳取得を実現した。

 被爆者が今まで原爆手帳を取らなかった大きな理由は「偏見」と「無知」ではないか、と竹内さんはみる。特に被爆地から遠い府県などでは、被爆者に対するいわれのない偏見への不安が根強い。だが竹内さんは、いつも相談者に言う。「被爆者であることを隠そうと思うなら手帳を取らんほうがいい。しかし、それは間違い。原爆で放射能を浴びた事実は重い。手帳を取った上で、使いたくなければ使いなさんな」  せっかく作った法律なら「生かして使わにゃ意味がない」と確信する。相談者から手帳を受けた報告があると必ず「法律をよう勉強して活用し、長生きしんさい」と助言する。

 虚偽申請の弊害もみてきた。親が広島駅で被爆したのに証人がおらず、他の日の入市にして手帳を受けた。一緒に被爆した子供が後で申請した際、「親と証言が違う」と不交付になった。

 「事実を曲げてまで手帳を取るな。受け付ける行政も、先に出した手帳の証言の方が本当と信じ込む。うそを助長してはいけん」。被爆の事実だけは正しくないといけないのだ。

 竹内さんは、半身が不自由になった妻の世話のため相談業務を辞めた。それでも自宅の相談電話が鳴る。面倒をみた人には、その後も年賀状で助言を送り続ける。手帳交付者の喪中通知が届けば「原爆慰霊碑の死没者名簿に記入されましたか」と遺族に手紙を出す。

 原爆医療法の目的にこうある。「被爆者が今なお置かれている健康上の特別の状態にかんがみ…」。法律で原爆手帳は交付されても、病気がないと医療給付の対象にならない。「まして原爆の一番の犠牲者であるはずの死者には何もない」。心に沈殿し続ける思いだ。死者が報われる『手帳』はないのだろうか。


≪中国新聞 あの日再録 63・10・15≫ 特別被爆者制度

 1957年に制定された「原爆医療法」は、医療援助のなかった被爆者にとって待望の施策だった。しかし3年後の改正でできた「特別被爆者制度」で、近距離被爆などの特別被爆者は認定以外の一般疾病でも医療給付が受けられるようになった。年々その対象は広がり、一般被爆者と特別被爆者の格差解消を求める声が高まる。ある病床の主婦が格差撤廃を求めて寄せた投書の一節である。区別が廃止されたのは、投書から11年後の1974年である。

                  ◇   ◇

 多くの病める一般手帳の被爆者の方々は、私を含め、国立や県市公立の大病院の受診でどういう返事をもらえるでしょうか。…どの医師も同じように言われることは「あの日を境に健康体を失われての病苦のつらいことはよくわかるのですが…そう簡単には特別手帳に切り替えてさしあげる制度にはなっておりません。はっきり申せば、まだまだ、とことん病状が悪くならなければ許可できないことになっております」との話。私は情けなくて涙も出ませんでした。早期発見、早期治療が現在では何よりの特効薬であることは周知のことです。だれがトコトン悪くなるまで生命の危険をおかして…特別手帳をほしがる人がおりましょうか。これでは多くの一般手帳の人々は被爆者援護の手の届かない谷間で泣き寝入りさせられているのと同じです。

 いままでも長い間、私たちは病弱ゆえ、病気と貧しさの悪循環がとめどもなく続きました。…一日も早く医療法のワクの差別撤廃に強く働きかけてくださいますよう…千秋の思いで待っております。

<参考文献>「咲け!山ユリの心」(神田三亀男)▽「ヒロシマ日記」(蜂谷道彦)▽広島原爆医療史(広島原爆障害対策協議会)▽被爆40年 原爆被爆者援護のあゆみ(広島県)▽原爆被爆者対策事業概要・平成6年版(広島市)▽被爆四拾年(島根県原爆被爆者協議会)など

(1995年3月12日朝刊掲載)

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