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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <9> 原爆養護ホーム

■編集委員 小野増平

 母親の胎内で被爆し知恵遅れなどの障害を持つ「原爆小頭症患者」と、原爆で孤独な「生」を強いられる「原爆孤老」・。ともに被爆から50年の歳月を刻みなお、身をもって原爆の罪と悲惨を問いかける。

 原爆がもたらした知的障害者や高齢者にとって、国と自治体が用意した福祉施設は果たして安らぎの場たり得ているのだろうか。28年もの間、障害者施設で黙々と生きる一人の原爆小頭症患者と、原爆養護ホームに入って25年、同じ境遇の高齢者と肩寄せ合う原爆孤老を、それぞれの施設に訪ねた。

 厚生省が原爆小頭症と認定している患者は全国で24人。一方、原爆孤老は年の経過とともに様変わりし、今では身寄りがありながら孤立を余儀なくされた「精神的孤老」も増えている。


老いの身に募る孤独 「原爆孤老」の江津秀子さん

 ベッドの上の小机にお供えをあげ、江津秀子さん(93)は今朝もじっと目を閉じ原爆で亡くなった人、入所している原爆養護ホームで先立った友だちの霊に手を合わす。

 ホームに入って25年になる。細流にわき水がしみ出るように静かに時が流れた。起伏のない日々の連なり。「でも、同じような環境の人々に囲まれ、寂しいと思ったことはほとんどありません」。江津さんは少女のようなはにかみを見せながら言う。

 完成して間もない広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」=広島市中区舟入幸町=に、江津さんが入所したのは1970年9月。当時、原爆で身寄りをなくした「原爆孤老」が社会問題化していた。

 「つれあいも子どももピカで死んだ。病気が治っても帰る先がない…」。原爆病院にはそんな入院患者が滞り、基町の住宅密集地には希望を失いかけた独り住まいの老被爆者が、その日その日を送っていた。

 長年の訴えの末、ようやく完成した鉄筋コンクリート3階建て、一般養護100人、特別養護50人の「むつみ園」は、そんな原爆孤老たちの「希望の家」として期待された。

 開所と同時に「むつみ園」には広島原爆病院から9人が入所した。「さあ 第3の人生だ 孤老の身寄せ合う よろしく…はずむ声」。70年4月22日付の中国新聞は、入所第一陣の9人の喜びの声をこう伝えている。

 江津さんも「原爆孤老」だった。あの日、宇品の自宅でめいと2人でせん光を浴びた。めいは7月末の徳山空襲に遭い、江津さんが広島へ連れて帰ったばかり。幸い2人とも大きなけがはしなかった。

 戦後、間なしに折り合いの悪かった夫と離婚した。めいと2人で、基町の市営住宅で細々と貸本屋を営みながらなんとか生き抜いた。やがて、めいが結婚。10年を超す歳月を一人で暮らした。70が近くなる。独り暮らしがこたえるようになった。

 「生活保護をもらいながら一人でおるより、ホームに入れてもらった方が安心だと思いまして」。わずかな荷物を持って落ち着いたホームの10人部屋は畳の香も新しかった。

 「むつみ園」では、オルガン、舞踊、手芸、造花と趣味に打ち込んだ。寂しさを忘れ、つらい過去を振り返らないための、生きるうえでの知恵でもあった。

 3年前、原爆特別養護ホーム「倉掛のぞみ園」(定員300人)が広島市安佐北区倉掛三丁目に完成、むつみ園から、のぞみ園の2階北フロアの4人部屋「ひまわり」に移った。北西に大きく開けた窓からは正面に武田山、麓に広がる新興住宅地が一望できる。

 25年の間に原爆養護ホームも変わった。静かな住宅街の高台にある5階建てののぞみ園はエレベーターで2階に上がる。廊下と居住区を大きなガラス戸が仕切る。暗証番号を押さなければ電動式のドアは開かない。

 「徘徊(はいかい)するお年寄りが多くなったので安全のためです。それでも強引に押し開ける人もいるんです」。寮母が表情を曇らす。

 昼食前。各階の中央にある集会所兼食堂に、車いすの入所者が寮母に連れられて各室から集まってくる。テレビからレーザーディスクのナツメロが大音量で流れている。

 入所者の間に会話はない。テーブルに向かって口を開けて目を閉じる人、まなざしを虚空に漂わせる人…。

 突然、「死んだ方がええ」と老女が叫ぶ。徘徊がひどいため車いすに腰をくくりつけている。その車いすから離してほしい、離してくれないなら…と訴えているのだ。寮母の一人が落ち着いて「あめをあげて」と対応する。「ゆっくり食べるんよ」

 のぞみ園の平均年齢は昨年末で83歳を超えた。300人の入所者のうち3分の2が車いすか歩行器を使い、3分の1はおしめをしている。

痴ほう化傾向も深刻だ。被爆者の高齢化に伴い、ホームの超高齢化、超特養化現象はますます進む。

 「人生のたそがれを迎えたお年寄りを、ただ哀れなものにするか、温かい輝きを持ったものにするかは、介護するものとされるものの関係しだい。介護する側が奉仕の気持ちを失ったとき、養護ホームはホームでなくなる」。取材で会った広島県老人福祉施設連盟会長の蛯江紀雄さんの言葉が重く思い出される。

 江津さんは体調を崩したため、ベッドで一人食事をする。最近は、ホームで19年間を一緒に過ごした児玉アサコさんのことを思い出すことが多い。児玉さんは3年前に七72歳で亡くなった。

 児玉さんも原爆孤老。両親を原爆で失い、一緒に被爆した夫は病弱な妻の行く末を案じながら23年前に先立った。一人になった児玉さんは翌年、ホームに入った。

 原爆によって深い傷を受けた者同士。江津さんと児玉さんの2人は、寄り添うように人生の終章を語り合ってきた。原爆にさえ遭わなかったら、2人ともこれほど長い孤独を味わうことはなかったかもしれない。

 江津さんはこのところ、自分が亡くなった後のためにと身の回りの整理をすることが多い。徳山市にいる妹にいくばかりかの蓄えと遺品を託すつもりだ。

 「死んだら弔いくらいは…」。一人の人間が生きたあかしとして、せめてそれくらいはしてほしい。蓄えはそのため使ってほしい。それは「原爆孤老」たちに共通の切実な願いである。


平和コンサート 収益1億5800万円 「被爆者」に寄付

 広島市の第三の原爆養護ホーム「のぞみ園」の建設には歌手の南こうせつ、山本コウタローさんらが大きな役割を果たした。

 二人が最初に平和コンサートを思い立ったのは国際平和年の1986年。前年に広島市が主催した青年フォーラムに出席したコウタローさんが、若者たちと雑談中に「被爆地で平和コンサートを開き、収益を被爆者のために役立てることができたら」と夢を話したのがきっかけになった。

 86年8月5日の夜、広島修道大グラウンドで開いた「平和祈念コンサート HIROSHIMA」には米国、韓国など5カ国29グループ、約200人のミュージシャンが無料で出演し、15,000人の若者の熱気であふれた。

 こうせつさんらは確かな手ごたえを感じ、その翌年から「音楽を通じた息の長い平和活動を」と、10年計画の「HIROSHIMA’87・’97コンサート」を実施。最初の年だけで収益の7,000万円を「原爆養護ホーム建設に役立てて」と広島市に寄付した。

 その後、曲折はあったものの毎年、コンサートを開催。寄付総額は昨年までで1億5800万円にもなり、92年には「のぞみ園」も完成した。こうしたことから、ちょうど10回目に当たる被爆50周年の今年、最後のコンサートを広島市の厚生年金会館ホールで開く。

 こうせつさんは「たかがコンサートが、多くの人の共感を得て行政を動かし、されどコンサートになった。一歩を踏み出す勇気の大切さを痛感した」と言い、「これからもヒロシマ・ナガサキを一生の問題として考えて行きたい」と話している。

<参考文献>「原爆が遺した子ら」(きのこ会)▽「この世界の片隅で」(山代巴編)▽「原爆孤老」(刊行委員会編)▽「紙碑」第1・3集(広島原爆養護ホーム)▽きのこ会会報

(1995年3月19日朝刊掲載)

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