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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <10> 被爆韓国・朝鮮人①

■報道部 西本雅実

 「日本は唯一の被爆国として…」。政府に限らず被爆者、マスコミもこうした言い回しをする。原爆被害者は日本国内だけにいるかのように聞こえる。そのフレーズからは、一群の人たちがすっぽり抜け落ちている。在韓被爆者をはじめとした海外にいる被爆者たちである。

 朝鮮半島の南部から広島への移住の歴史は古く、1910年代にさかのぼる。日本の植民地支配の下、男たちは生きる糧を求め広島に渡り、やがて妻子を呼び寄せ家族で住みつく。大戦中は徴用工の他、軍人・軍属もいた。そして原爆に遭った。

 傷ついた身一つで母国に戻った在韓被爆者は今、どうしているのか。長く医療支援も行わず放置して来た日本をどう見ているのか。初の被爆者福祉施設が着工する韓国慶尚南道陜川郡を訪ねることから、「もうひとつのヒロシマ」の現実を追う。


帰国者悩ます後遺症 「韓国のヒロシマ」陜川郡

 金全伊さん(72)は居間に腰を落とすと、やるせなさそうに笑った。「『薬はあきた』と飲もうとしないんです」。その間も、夫の鄭基璋さん(72)はじっと天井を見上げたまま。寝たきりになって、もうすぐ4年目の春が来ようとしている。

 鄭さんは韓国原爆被害者協会の元陜川支部長。体の自由が利くころは、山あいに点在する集落を歩き回り、被爆者家族の聞き取り調査をした。その試みが、一つの邑(町)と十六の面(村)からなる陜川郡の被爆実態をあぶり出した。

 陜川が「韓国のヒロシマ」と呼ばれるゆえんは、鄭さんの調査を下敷きに、広島大原爆放射能医学研究所の疫学・社会医学部門が1978年にまとめた報告書からもうかがえる。

 被爆者は5001人。うち98%が広島で被爆した。調査時点の生存者は3870人で、郡内の実に40人に1人相当が被爆者だった。これは、広島市を除く広島県内に在住する被爆者人口の割合(39年度末2.9%)に匹敵する。

 広島の朝鮮人社会の間では戦前こんな言葉があった。「名前は問うても故郷は問わぬ」。それほど陜川出身者が多かった。

 陜川で語り継がれるところでは、1910年代広島に渡り事業に成功した一家が、親類縁者を呼び寄せ、それをきっかけに渡航者が雪だるま式に増えたという。当時、広島は米国やペルー、ブラジルなどへの移民が引きも切らなかった。その広島を目指すほど、陜川は寒村だった。

 「ええとこでした。私は尾長小(広島市東区)、この人は川内小(安佐南区)を出ました」。陜川の被爆者の多くの例に漏れず、金さんは原爆に遭う前の広島を懐かしがった。左半身が動かない鄭さんも、「川内」という言葉を聞くと笑顔をよこした。

 裏返せば、「異境」での生活がよかったと思えるくらい、被爆後の人生が暗転したということでもある。怒り、嘆きも押しつぶしてしまう苦しさ、つらさ。

 鄭さんは、父が知人の借金保証人になって一家が破産。広島へ家族ぐるみで渡った。数えで11歳の年だった。小学校を卒業すると、父の土木請負を手伝い、日本生まれの金さんと南観音町で所帯を持った。子供も生まれた。そのつましい生活を原爆が吹き飛ばした。

 「助かった人はあのころ皆国へ帰ったでしょう。私らもついて戻ったけど、こちらには家はないし、韓国の言葉、習慣も知らなかった。ずっといいことはなかった…」

 帰国5年後、陜川は朝鮮戦争の戦場になった。夫婦は混乱の中で幼い娘を病気で亡くした。日本の植民地支配のつけは、傷つき無一文同然で戻った被爆者をさいなんだ。

 鄭さんは村役場に職を得たが、助役だった四十半ば過ぎで退く。原爆で家屋の下敷きとなり、体調が思わしくなかったためだ。治療費をねん出するため、手に入れたささやかな田畑も手放した。

 それからである。同じ被爆者の窮状を見るにつけ、鄭さんは「だれかがやらなければ」と腰の痛みを押して、郡内でひっそり暮らす被爆者を掘り起こした。

 執念を込めた調査結果は、81年から5年間続いた日韓両政府による渡日治療で生かされる。広島、長崎の原爆病院で入院治療を受けることができたのは349人とは言え、陜川からは90人が初めて専門的な治療の機会をつかんだ。

 その後もコツコツ調査を続け、6,000人を超す陜川出身の被爆者を確認した。ところが8年前、治療に訪れていた広島市内の病院で、突然体の自由を失った。

 しばらくは自力で起き上がれた。しかし、3年前からはそれさえもできなくなった。「日本語では中風と言うでしょ。針も漢方も試したけど…」。金さんはそれでなくても小柄な体を丸めた。

 郡内人口はいま約7万5000人。陜川は過疎・高齢化が進む村でもある。鄭さん夫婦の4男1女はいずれもソウルや大邱など街に出た。

2人はその子供たちの援助が頼り。それだけに、3年前から出る「被爆者診療補助費」はわずかであっても助かると言う。現在月額10万ウオン(約1万2000円)。日本政府が91、2年度で拠出した総額40億円の「在韓被爆者支援特別基金」を基に、大韓赤十字社が支給している。

 しかし、日本で被爆しながら一切の援護から長い間切り捨てられていた在韓被爆者と、日本の被爆者との落差は今も大きい。

 これが日本ならば原爆特別措置法で、鄭さんのような脳血管障害の被爆者には健康管理手当(月額3万3300円)、「日常生活において著しい制約を受け介護を要する状態」は介護手当(重度で月額10万3050円)の支給がある。

 何よりも、日本の被爆者は医療費負担に気を患うことなく入院治療ができる。

 鄭さん夫婦は渡日治療を利用し、広島市で被爆者健康手帳を取得した。が、いったん日本を離れるとただの紙切れでしかない。夫婦は子供たちの負担を少しでも軽くしようと土地つきの自宅を売り、集合住宅の2Kに住む。

 「こちらでも介護の人はいるんです。とても高い。100万ウオンはいるでしょう…」。金さんは床に伏せる鄭さんをみやり、ぼそっとつぶやいた。金さんも血圧が高い。夫を介護してくれる人がいれば「その間だけでも日本へ治療に行きたい」と願う。

 陜川から広島へは飛行機でわずか半日。しかし老いた2人にとって、その地ははるかかなたにある。

≪郡内の被爆者は訴える≫
 ▽李順基(原田正夫)さん(65) 農業兼酒店経営
(1)中区冨士見町での建物疎開作業中。妹が爆死(2)日本の政府はなぜ韓国にいる被爆者を差別するのか、その理由を聞きたい。生まれ故郷の広島を訪ね、江波小時代の友達に会ってみたい

 ▽金日炸(松本君代)さん(66) 無職
(1)江波町の自宅で。母は帰国後に死亡(2)子供たちが結婚し、原爆被害者の登録をした。妹や横川三丁目にいた姉家族は申請したくても、日本の「原爆手帳」が必要と言われた。何とかならないだろうか

 ▽李鳳文(望月鳳文)さん(70) 農業
(1)自宅は天満町にあり、徴用先の呉海軍へ行く途中(2)肝臓が悪く、郡の診療所でもらう薬が欠かせない。街の病院に入院すると大変なお金がかかる。漢方薬も高い。日本の人と同じ待遇をして下さい

 ▽柳注鉉(柳川春雄)さん(66) 農業
(1)広島市第二工業学校1年生の時、広島赤十字病院の前で(2)体が弱く、子供5人を育てるのに苦労しました。渡日治療で広島原爆病院に入院でき、こうして長生きできた。本当によくしてもらった

 ▽張春秀(張本春子)さん(64) 鮮魚商
(1)家族8人がいた江波町で。小学1年生の弟と当時3つの妹が死んだ(2)原爆のことを話しても、こちらの人には分からないし、面白くない言葉が返って来る。言ってもしかたがないので話さない

 カッコ内は被爆時の日本名。(1)被爆場所・状況(2)いま原爆に思うこと

(1995年3月26日朝刊掲載)

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