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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <12> 写真特集②

■被爆50周年取材班

 被爆から半世紀の広島の歩みをたどる「検証ヒロシマ1945~95」は、これまで破壊から復興期を生きる被爆者の姿を見てきた。次回から慰霊、継承、さらに平和・原水禁運動の系譜などを探るのを前に、壊滅から立ち上がる広島市民のいぶきを、当時の写真で追ってみる。一瞬のせん光でこの世の地獄を体験し、人間らしい感情さえも奪われながら、人々は悲しみと絶望のふちから再起を誓った。死の街を見た人間のひとみにも、生きる希望の灯はともっていた。


荒神町小学校の「青空教室」

 男先生は国語の本読み授業、女先生は向こうでオルガンを背に音楽の時間。学年は定かでないが、手前の児童は低学年だろう。むしろの上に正座し、背筋を伸ばす。そろえたげたも小さな足には余りそう。親からの借り物だろうか。原爆から3年後の初夏。広島市南区の荒神町小学校の「青空教室」である。

 男先生は当時、教頭だった向野(こうの)敏禧さん、女先生は中吉喜代子さん。向野さんは21年前、67歳で鬼籍に入ったが、中吉さんは瀬戸の香が漂う広島県豊田郡安芸津町に健在である。同じ67歳になった。「つらい時代でしたが、みんな懸命に生きていましたよ」。遠い時代の記憶は鮮明だ。

 校庭を使う同小の「青空教室」は、終戦直後の1945年9月に始まった。学校沿革史の同年8月6日に「原子爆弾ニヨル大空襲ニアイ校舎全壊ス」とある。爆心から2キロ余り。焼失こそ免れたが、鉄骨の講堂を残して校舎は崩れた。

 校区内には広島駅周辺のやみ市や公設市場があって、戦後の活況とともに人口は急増する。郡部に集団疎開していた児童も戻った。45年に148人だった児童数は48年には748人に膨らんだ。教室は仮校舎の四つと講堂を仕切った六つだけ。午前、午後の2部授業でしのぐものの、それでも教室は足りなかった。

 「講堂で隣の部屋が本読みを始めると大声が筒抜けで…」と中吉さん。同僚の馬野幸子さん(64)=旧姓玉崎、広島市中区江波二本松1丁目=も「隣に負けないよう声を張り上げて疲れ果て、辞めたいと思ったことも…」と振り返る。気がねのない青空教室は、結構、先生に人気があった。

 「でも耐乏生活でしたね」と当時の校長、笹村弘志さん(86)=同区西川口町。ザラ紙に印刷した教科書。戦前の教科書を使う時は、軍国調の記述に墨が入っていた。机がわりにミカン箱を並べ、拾ったくぎで地べたに字を書いて覚えた青空教室もあった。

 笹村さんの弁当箱の中身はイモだった。親たちが「校長先生もイモを食べよってじゃ」と気の毒がった。学校視察に訪れた連合国軍総司令部(GHQ)担当者が「先生にも給食を」と指示した。学校給食は子供だけだった。その給食も脱脂粉乳を溶かしたミルク。それでも児童は勉強より給食が気になった。

 中吉さんは荒神町小が初任地。当時の印象はとりわけ深い。「親も子も一生懸命生きていましたね。助け合いながら頑張って…。教師と子供が一緒に遊び、家族的で生き生きとした時代でした」。貧しくても、そこには教育の原点があったように思う。

 中吉さんと後任の三田尾基さん(76)=同区本川町1丁目=が担任した50年春の卒業生は、30年来クラス会を開いている。もちろん2人の先生も出席する。厳しい時代を過ごした師弟のきずなは強い。「履物もげたがありゃ、ええ方よの」「給食のうどんが三本じゃった」。いつも、そんな話になる。

 世話役の大森国昭さん(56)=同市東区福田四丁目=のもとには毎年、春にタケノコ、冬には京菜が届く。三田尾さんが育てる旬の味だ。その恩師の「心」を持って、大森さんは級友の家を回る。

 荒神町小の青空学級は、木造2階建て6教室の校舎ができた48年9月に姿を消す。3年間の校庭教室だった。今年1月下旬の創立記念日、野田進校長(56)は子供たちに青空教室の歴史を話した。そして「二度と戦争を起こしてはならない」と結んだ。「戦後50年ですから、こんな話をしてみました…」

(1995年4月9日朝刊掲載)

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