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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <14> 平和の鐘

■報道部・西本雅実

 「原爆の子の像」と「世界平和記念聖堂」。ともに広島市が復興途上にあった1950年代に建設され、原爆犠牲者の慰霊と平和への誓いを新たにするヒロシマの代表的な記念碑・建造物である。

 像のモデルになった佐々木禎子さんは多くの映画や小説にもなり、その数だけの「物語」が一人歩きしている。聖堂建設を実現させたドイツ人神父フーゴー・ラサールさんの存在は、信徒ら以外は知る人とて少なくなった。被爆から50年という時の流れが、伝説と忘却を生む。

 「平和のシンボル」となった少女と忘れられた神父の在りし日を、2人を実際に知る関係者の証言と記録から追う。「歳月」という厚い装いに埋もれた事実を掘り起こすことでしか、「原爆神話化」「ヒロシマの風化」をくい止めるすべはないと思うからである。


忘れられた「聖堂の主」 世界平和記念聖堂を建設したラサール神父

 畳3枚分の広さ。トタンと板きれで建てた一部屋の「教会」は聖堂と応接間を兼ね、夜はござを敷いた寝室になった。朝になると、板を横に張っただけの祭壇の下は押し入れに早替わりした。

 被爆から4カ月後。広島市幟町の教会跡に戻ったフーゴー・ラサール神父の一夜は毎日、こうして明けた。

 「夕食は飯ごうでたいたご飯に、大根のおかずだった」。81歳になるフーベルト・チースリク神父=東京都在住=は、ラサール神父と共に過ごした焼け跡での生活を昨日のことのように話す。戦前、イエズス会のドイツ管区から派遣され、幟町教会で被爆したドイツ人神父4人のうち唯一の健在者である。

 「あの聖堂の計画が出た時も、『無謀』『夢にすぎない』と反対する神父がいた。しかしラサール神父は、欧米各国を回って訴え、成し遂げたのです」

 世界平和記念聖堂の建設者であるラサール神父は、20歳の時にイエズス会に入会。英国などで哲学・神学を修め1929年来日した。イエズス会の日本地区長を経て幟町教会に着任したのは、日米開戦の1年前。戦時下は、同盟国を結んだドイツからの神父ということで収容は免れた。

 「あらゆるものが起爆力を持ったようであった」。生前そう記した原爆には、司祭館2階の自室で遭った。窓ガラスの破片が背中一面に突き刺さり、左足裂傷の大けがを負った。倒壊した付設の幼稚園から保母2人を助け出し、炎から逃げたところで倒れた。

 郊外の長束修練院へ担架で運ばれる途中、担架ごと溝に転落した。「休憩ですか?」。そう冗談を飛ばしたという逸話が残る。天性のユーモリストでもあった。

 けがの痛みが引くや、神戸での療養から帰って来たチースリク神父と共に周囲の反対を押し切って、冒頭の3畳の「教会」に戻る。

 見渡す限りガレキの街に立ちながら、壮大な計画を胸に膨らませた。「原爆犠牲者の霊を慰める」教会の建設である。生前のインタビュー記録や関係者の証言からすると、被爆から1年足らずの間に決意したとみられる。

 決意を胸に46年8月、北米経由でローマに向かう。翌月に開かれた「全世界イエズス会議総会」に日本地区長として参加するためであった。途中、立ち寄ったニューヨークで、初めて米国を訪れた被爆者として記者会見にのぞみ、「ヒロシマ救済を教皇に懇請し、全世界に体験を発表する」と語っている。

 この「ヒロシマからの巡礼」はローマでの会議の後、欧州ばかりか南米各国にも延び、1年5カ月にも及んだ。その間、「日本戦勝」の「勝組」が圧倒的だったブラジルの日本移民集団地を回って、戦後日本の実情を説いている。

 現地の邦字紙パウリスタ新聞が、47年7月サンパウロであった講演を詳しく記している。原爆の体験から、戦後のやみ商売の横行までを伝える神父の一言一句に、満場の3000人の聴衆は粛然と聞き入り、講演が終わっても去ろうとしなかった。

 が、その一方で「勝組」は流ちょうに日本語を話すラサール神父を「米国のスパイ」と見なし、頭から耳を貸そうとしなかった。

 神父は、ナチスによる母国ドイツの荒廃やブラジルで接した「狂信」から、「世界平和の礎となる教会」建設の考えをさらに深めた。帰国の翌47年、幟町教会内に「聖堂建設部」を発足させると、その長身をかがめて夜行列車やジープで、募金活動に飛び回った。

 当時「建設部」で働いていた広島県黒瀬町の重度心身障害者授産施設「太陽の町共同体」所長の福間延子さん(69)は言う。「神父様の働き掛けで、高松宮や池田さんも協力してくださったんです」

 「池田さん」とは、聖堂建設後援会長に就いた池田勇人蔵相。ブラジルで出会った日本人移民が機縁で知遇を得た。国内外の支援体制も整い、信者らの呼び掛けに市民からも10円、20円…と浄財が集まる。復興の街に建設のつち音が高まった。

 聖堂は満4年の歳月を費やして54年8月6日完成、献堂された。日本のモダニズム建築の草分けで後に文化勲章を受章した故・村野藤吾が設計した。

 30万本に上ると言われるコンクリートブロックを積み上げた聖堂は、全長52メートル、幅20メートル。高さ45メートルの塔には旧西ドイツの製鋼会社から寄贈された4つの「平和の鐘」がつるされた。その鐘は今も、朝に夕に世界平和を願って鳴り続けている。

 しかし、聖堂はその後、60年に生まれた広島司教区の管理下に移った。教会もイエズス会から広島教区の司祭が担当することになり、ラサール神父は幟町教会の主任司祭も退かなくてはならなくなった。68年には多くを語らず広島を離れ、東京へ移った。その直後、広島市名誉市民の贈呈が決まった。

 「個人的なことは決しておっしゃる人ではなかったが、心血を注いだ聖堂から切り離されたことは無念だったと思う」。ラサール神父が東京で名誉所員となった上智大東洋宗教研究所の門脇佳吉教授(69)は、そう推し量る。神父が禅に深い関心を抱き、座禅を取り入れた修練指導をし、禅に関する著述を著していたのが、当時ローマの教皇庁から理解を得られず、信仰上の板挟みが続いていたという。

 禅への関心は戦後4年目に日本に帰化し、「愛宮(えのみや)真備」と日本人でも古風過ぎる名前をつけたことからもうかがえる。再建した幟町教会の司祭館でも、一枚の畳の上で寝ていた。

 晩年は東京・秋川渓谷に開いた「神瞑窟(しんめいくつ)」を拠点に、欧州で精力的に座禅の実践指導を続ける。90年7月、訪れていた旧西ドイツで亡くなった。91歳だった。

 世界平和記念聖堂にはいま、「愛宮真備 フーゴー・ラサール神父」と刻んだ楕円形のブロンズ・レリーフが、祭壇に向かって左側の壁に埋め込まれている。

 原爆忌には平和記念公園を必ず訪れて祈りをささげるほどヒロシマを愛した神父は、4年前に遺骨で聖堂に戻った。レリーフには「平和を祈る」と、神父の遺志が簡潔に刻まれている。


祈り告げる5つの「鐘」 初代は朝鮮戦争時に盗難

 毎年8月6日の広島市の平和記念式典で、午前8時15分ちょうどに鳴り渡る「平和の鐘」。1947年の平和祭から始まり、ヒロシマの祈りを国内外に告げる。鐘は現在で5つ目を数える。それ以前の鐘はどうなったのか。忘れられた「平和の鐘」を追う。

 「諸行無常の昔の音のするお寺の鐘では、感じが出ないといって外国寺院の鐘を探している」。47年7月16日付の中国新聞は、市などでつくっていた平和祭協会の式典準備をこう伝える。当日の式典写真には、確かに教会でみられるような洋風の鐘が写る。

 その鐘は慈仙寺鼻(現平和記念公園)にあった平和塔(高さ約10メートル)につるされ、翌年も鳴り響いた。

 49年には、広島銅合金鋳造会が平和記念都市建設法の誕生を祝い制作、市に寄贈した。被爆金属などで鋳造したベル型の鐘は、英文で「ノー・モア・ヒロシマズ」と刻印。この年、式典が今の市中央公園であり、鉄骨の鐘楼に据え付けられ音色をとどろかせた。

 しかし、重さ37.5キロの初代の鐘は、朝鮮戦争で金属需要が高まった51年3月盗難に遭い、行方知れずに。2代目の鐘もいつしか忘れられ、市は73年に関係者の指摘で、放置されたままの「平和の鐘」のいわれを知ったほどだ。

 式典で「平和の鐘」が再開されたのは52年。原爆慰霊碑が除幕された平和記念公園で初めて鳴り響いた鐘は、広島市中広町の寺院から借りた。その3代目の鐘は西区新庄町の民家に残っていた。「世界平和伝声之鐘」と刻まれる。

 「檀家に市役所の人がおり、『8月6日はどこのお寺も法要のため貸してもらえない』と、父に貸与を頼んだんです」。入院中の住職、小田法顕さん(90)に代わり、長男の正人さん(66)がそう明かす。

 鐘は重さ21.5キロ。「昭和二十七年広島市長浜井信三氏志望…」のいわれも残り、式典の記録写真からも63年まで12年間にわたり、「あの時」を告げていたのが分かる。

 法顕さんは復員後、真宗仏光寺派の僧りょとして中広町に光元寺を構えた。原爆で長女をはじめ3人の子供を失っていた。寺は六五年に焼失したが、小田さん親子は無事残った鐘を寺宝として保存した。

 4代目の「平和の鐘」は、南区元宇品町の臨済宗観音寺の半鐘を借り、67年に5代目の現在の鐘となる。

 梵鐘(ぼんしょう)造りの名人と言われ、人間国宝にもなった故香取正彦氏が制作、寄贈。吉田茂元首相揮ごうの「平和」が浮き彫りになる。普段は原爆資料館東館に保存・展示されている。

<参考文献>「こけし 星の一つに」(幟町中「こけしの会」)▽「折り鶴の子どもたち」(那須正幹)▽「破壊の日 外人神父たちの被爆体験」(カトリック正義と平和広島協議会)▽「世界平和記念聖堂」(石丸紀興)▽「コロニア戦後十年史」(パウリスタ新聞)▽「日本のイエズス会史」(イエズス会日本管区)など

(1995年12月16日朝刊掲載)

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