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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <15> 原爆資料館

■報道部 岡畠鉄也

 「核戦争が起きたら残るのは人影だけだろう。いや人影さえ残らないだろう」。スウェーデンのパルメ元首相は、86年に暗殺される5年前、広島市の原爆資料館に展示してある「人影の石」を見てこう感想を漏らした。

 あの日の惨状を語る被爆資料は50年たった今でも見る者に強い衝撃を与える。黒く焼けただれた弁当箱、ぼろぼろの学生服…。もの言わぬ資料の「伝言」に、原爆資料館を訪れる年間約140万人の人々は、悲しみを分かち合い、核戦争の恐怖を心に刻む。

 広島市民は被爆直後から資料を集め展示した。人類が生存するために被爆の実相を残し伝えることが、初めて核兵器の惨禍を体験した者の責務と考えたからだ。しかし、米スミソニアン博物館展示問題が示したように、それを「被害の誇張」ととらえる人もまた多い。

 被爆体験の風化が進む中で、資料の持つ意味はますます重くなる。米軍占領下に総合展としては初の原爆展を開いた京大生と、今年開館40年を迎える原爆資料館に後遺症で抜けた髪の毛を寄贈した女性を中心に、被爆資料に託した思いを見る。


「乙女の命」惨禍語る 抜けた髪を寄贈 山下博子さん


ママの結婚写真を見せてとあなたは聞くの
そうね!もう話してあげてもいい時が来たのね
あの時 ママも若かった
腰までたれた三つ編みの髪が自慢の
十八歳の乙女だったの
いま思うと、とても静かな朝だったの
八時十五分という時間はそこで止まったみたい

(中略)

パパと初めて会ったのはママは丸坊主の時だった
原爆の放射能がママの身体を犯して
乙女の命の黒髪は、みんなぬけて
あとかたもなくなっていたの
ママはひとりで泣いた、いつもいつも
でもパパはママを愛して下さったの
そして、丸坊主でもいいよと云つたの
わかるわね、あなたにはママの結婚写真が
ないわけが
結婚写真はなくても、ママはちっとも
悲しくないの
いま、パパがいて、あなたがいるから。

 広島市東区戸坂南の山下博子さん(68)は22年前にこんな詩を作った。どこの家にもある両親の結婚写真が、一枚もないことを不思議に思ったわが子への「ママの結婚写真」という詩による回答である。

 「あの子が幼稚園に通っていたころ、友達の家で写真を見たのでしょうね。ずっと私の心に引っかかっていました。何年かたってテレビでウエディングドレスをテーマにした詩の募集があり、作ったのがこの詩なんです」。博子さんは棚に飾ったエンビ服姿の長男の写真を見つめる。

 突然深い暗やみの底に沈んでいく感じに襲われた。あの日、博子さんは爆心から約800メートル離れた大手町の自宅で閃(せん)光を浴びた。ものすごい爆風、がれきの下敷きになった。体が動かない。せめて「軍国の乙女」らしく見苦しくない最期をと、手を合わせた。両親や兄弟の顔が次々と浮かぶ。ふと、小学1年の弟が一緒に自宅にいたことを思い出した。

 「弟を助けないと」。必死にもがきようやく外に出た。真っ暗な空に太陽がぼんやりと光りを放っている。辺りを見ると弟が地面をはいずり回っていた。火の手が迫る。博子さんは弟をおぶって懸命に逃げた。

 吉島の飛行場に着いた途端、博子さんは地面に崩れ落ちた。全身に37カ所の傷があった。おびただしい数の負傷者がいた。死んだ赤ん坊を抱えたままの母親もいる。地上の火を映して赤く染まった空を見つめながら夜を明かした。

 1週間後に両親とめぐり会い、旧広島県安佐郡狩小川村の親戚(せき)の家に避難したが、博子さんは起き上がれない。ほとんど無傷だった弟が8月21日、急に高熱を出した。隣で寝ている弟を見ると、まくら元に猫の毛のような短い髪が数本落ちている。母親が手で頭を触ると髪が全部抜けた。

 髪の毛が抜けると死が近いと聞いていた。「お母さん私の髪をすいて」。博子さんは意を決して頼む。くしを入れるとばさっと髪が落ちた。弟は二昼夜鼻血を出し続け死んだ。母親の乳房を握り「さようなら」と言い残して。博子さんは硬くなっていく弟の顔をなでながら死を覚悟した。

 原爆症に苦しみながらも博子さんはどうにか一命を取り留め、病院の治療を受けるため草津にあった姉の家に移る。まだ髪の毛がはえず、頭にスカーフを巻いていた。人の視線がつらかった。目を背けられるのが悲しかった。

 そんな博子さんにある男性が求婚した。姉の家に下宿していた銀行員の博三さん(68)である。悩んだ。原爆症がいつ再発するかわからない。そのころ、五日市に原爆孤児の収容施設が出来たと聞いた。博子さんは逃げるように施設に住み込みで働いた。24時間の労働。病身に耐えられる仕事ではない。

 博子さんは求婚を受け入れる。原爆投下から2年がたっていた。「5年は生きて欲しいなと思っていた」と夫は後に妻に打ち明ける。それだけ体が弱っていた。子供など夢に等しかった。

 結婚15年目に待望の命を宿した。しかし、夫も親も出産に反対する。母親に「あなたがすぐ死んだら、残された博三さんと子供はどうなる」とまでいわれた。それでも夫の愛情に報いたいという妻の心は揺るがない。難産の末、男の子が誕生した。1400グラムの未熟児だったが、医師も驚くほどの成長を遂げた。

 わが子は今、有望な若手指揮者として世界を舞台に活躍する。博子さんはそんなわが子の姿が死んだ弟と重なる時がある。音楽が好きだった弟、悲しい曲を聞くと涙を流すようなナイーブな少年だった。

 夫の愛に包まれ、健康な子供を育て上げた博子さんも、原爆の鎖から解き放たれることはない。抜け落ちた頭髪は徐々にはえそろったが、甲状腺(せん)がんで3回手術するなど入退院を繰り返す生活が続いている。わが子と別れる時は固い握手を交わす。「最後になるかもしれない」との思いからだ。

 広島市の原爆資料館に博子さんの抜けた毛髪が展示してある。博子さんがいつ死んでも不思議でない体だったため、母親が仏壇の引き出しにしまっていたものだ。57年に広島原爆病院に寄贈され、翌年、原爆資料館に分けられた。

 あの日、街を舞った砂ぼこりがそのまま付着した黒髪は、アクリルケースの中で茶色に変色しながらも、資料館を訪れる人に「ヒロシマの詩」を語り続ける。


「悪魔の刻印」資料収集に半生貫く 初代館長 故長岡省吾さん

 一人の地質学者の情熱が原爆資料館を生んだ。初代館長の長岡省吾さん(73年、71歳で死去)。半生を被爆資料の収集にかけた哲学は「人類の歴史に刻まれた悪魔の刻印を忠実に後世に伝える」ことだった。

 広島文理大(現・広島大)地質鉱物学教室の嘱託だった長岡さんは、被爆翌日、大学や親戚の安否を確かめるために広島に入る。護国神社にたどり着き、石灯ろうに腰を下ろした。その瞬間、針で突いた痛みを感じて跳び上がった。

 石の表面は磨き上げられ、無数のトゲがあった。トゲには一定の方向性があった。瞬間的な高熱によって表面が溶けて出来たものと推定できた。「これはただごとではない。大学で耳にした原子爆弾の影響では」。そう直感した。

 その日からリュックを肩に焼け跡を歩き回った。花こう岩の墓石、門柱などに残る「影」から熱線の方向や角度を、焼けただれたカワラや石から、距離別、方向別の熱量の強さを調べた。地質関係の本をヤミ市で売り、空のリュックにカワラや石を入れて帰った。

 「座敷も床の間も博物館の倉庫のようにガラクタに占領されていた」と長男の成一さん(71)=大竹市玖波2丁目=は振り返る。残留放射能の恐ろしさがちまたに広がっていた。長岡さんも9月初めから下痢や高熱が1週間続いた。妻の春江さんが資料を戸外に出すように主張する。「命とどっちが大事なんですか」。「もちろんカワラだ」

 長岡さんも後に「被爆直後撮ったフィルム20枚のうち16枚が放射線で感光していた。さすがにいい気持ちはしなかった」と本音を明かす。こうして集められた資料は爆心地の特定に大きな役割を果たした。

 復興のツチ音が高まるにつれ、広島市も被爆資料の重要性に気づく。49年、基町の中央公民館内に「原爆参考資料陳列室」を開設。長岡さんに約6700点の資料を提供してもらい、管理者として嘱託の辞令を出した。55年、原爆資料館が完成、初代館長に就任する。

 原爆資料館長はヒロシマの顔である。ネール・インド首相、ルーズベルト米元大統領夫人ら著名人に原爆の悲惨さを訴えた。ネール首相は「君によって私はヒロシマを記憶した」と握手を求めたという。

 62年に退職後も被爆鉄材の収集や分析を続け、物議を醸したろう細工の被爆者人形には「どんなリアルなものでも作り物だ」と反対した。ろう人形が登場したのは長岡さんの死(73年)の半年後である。

 「父は学徒を貫いた生涯だった。生の資料を展示してこそ平和を訴える力になる。ヒロシマの風化が進むほどその思いが強くなる。その辺りが市の方針と合わなかったのだろう」と成一さん。長岡さんの身分は退職するまで嘱託だった。

 ヒロシマの地質学者の執念が詰まった原爆資料館。だが、年間100万人を超す入場者であふれる展示場にもパンフレットにも「長岡省吾」の名前はない。


≪中国新聞 あの日再録 60・8・18≫ 資料館を美術館に 浜井広島市長が構想

 原爆資料館を美術館に転用する計画があった。1960年8月、浜井広島市長が記者会見で明らかにしている。資料館が被爆者や遺族に苦痛を与えているというのが理由だった。

 18日付の中国新聞によると、浜井市長は「公園はもともと市民の安らぎの場所だ。その真ん中に悲劇の生々しい資料があると、苦しみながら死んだ肉親のことが思い出され、心が締め付けられるようで、近づけないという声や投書がたびたびある。原爆ドーム南側の空き地に3、4階建ての新しい資料館を造り、今の資料館は希望者の多い美術館に転用したい」と述べた。

 浜井構想に対し、作家のロベルト・ユンク氏は「美術館は世界のどこにもあるが、原爆資料館はヒロシマだけのものだ。悲劇を片隅に押しやってはいけない」と、来広の際直接市長に反対したと新聞は伝えている。

<参考文献> 「原爆展掘り起こしニュース」(同掘り起こしの会)▽「被爆50年の中の原爆展の位置」(宇吹暁) ▽「君はヒロシマをみたか」(高橋昭博・NHK取材班)▽「広島新史歴史編」(広島市)

(1995年4月30日朝刊掲載)

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