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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <16> 爆心復元

■編集委員 小野増平

 原爆の悲惨と破壊を人類の永遠の記憶とするため、ヒロシマは被害実態の調査をはじめ、遺跡、証言、記録、資料の保存と収集、復元に努めてきた。原爆によって消えた町を地図上に甦(よみがえ)らせ、その町にかつて暮らしていた人々の生死と被爆史を明らかにしようという「爆心復元運動」、いま「世界遺産化」に弾みがつく原爆ドーム保存も、それらの努力の表れである。運動は多くの例に漏れず、官より民が先行し個人の労に帰する所が大きい。爆心復元では広島市、広島大原爆放射能医学研究所に先立ち、NHK広島中央放送局の若きディレクターのアイデアと局の情熱があった。原爆ドーム保存の陰には広島「折鶴の会」と、会を40年近くにわたって実質的に主宰してきた一人の執念の人がいた。保存と復元をめぐる典型を見る。

甦った空白の町並み 爆心復元のNHKスタッフ

 当時、駆け出しのNHKディレクターだった長屋龍人さんは、その朝、期待と不安で気持ちが高ぶっていた。午前7時20分から15分間、中国地方に流した自分の番組「カメラリポート・爆心半径500メートル」の反響が気になっていたのだ。いつもなら大手町2丁目の広島中央放送局に午前10時ごろ着くのに、この日は早めに祇園の寮を出て30分前には着いた。

 1966年8月3日朝のことである。局についた長屋さんを待っていたのは、次々とかかる爆心復元に関する情報提供の電話。はっきりは覚えないが、午前中だけで2、30本はあった。

 「これで番組は成功だと思った」。現在、NHK放送文化研究所(東京・港区)の研究主幹を務め、55歳になった長屋さんは、自分でも予想しなかった反響の大きさを懐かしく思い返す。

 「広島市大手町1丁目5の24」の爆心地を中心に、半径500メートル内の被爆前の町並みを地図上に再現、そこで生活していた人々について可能な限りの情報を集め、原爆が人間にもたらした影響のすべてを明らかにしようという爆心復元運動は、こうしてスタートした。運動は後に市、国を動かし半径2キロまで拡大、8年も続く大調査となる。

 長屋さんはこの年の春、東京の解説委員室・政経部から広島に転勤してきたばかり。入局4年目の若手で、東京時代にドキュメンタリーを手がけたこともなく、これが広島に来て2本目の作品だった。

 当時の広島局報道課のデスクから「原爆をやらないか」と声をかけられたのが取り組みのきっかけ。ローカル局が独自に番組を制作するようになってまだ数年、「大きなチャンス」と身構えた。とはいえ、岐阜出身の身にとってヒロシマは白紙に近かった。

 そのころ、原爆報道は3年前の原水禁運動分裂のあおりを受け、イデオロギー過多の時代であった。「生意気だけどこれは違うと思いましたね。原点の声が伝わってこない。こんなものではないはずだと考え込みました」

 新聞記事の中にあった、原爆で亡くなったのに生死の確認ができないため、戸籍上は生きたことになっている「幽霊戸籍」という言葉が頭にこびりついていた。

 「被爆から20年もたつのに死者の数も特定できず、生死の確認も出来ない文明社会とは何なのか。被爆原点の空白を問う番組はできないか」。取材を継続するうちに考えが膨らみ続けた。

 悩むうちに「平和記念公園の原爆慰霊碑の下には一体どんな人が住んでいたのか。それを明らかにできれば象徴的なものになる」とひらめいた。公園全体ではなく10メートル×10メートルの慰霊碑の下に限ったとき、テーマは明確な具体性をもって頭に浮かんだ。

 中島本町、材木町、天神町…。爆心直下の消えた町々にかつて住んでいた人々を捜し出し取材を続けた。場所と人を特定するのに自然と手書きの地図ができた。

 地図は不思議な力を持っていた。死者と生者、被爆者と非被爆者をつなぐ架け橋となった。白地図に1軒、1軒隣近所を書き込むという作業が、一人ひとりの記憶をよびさまし、人から人への記憶の連鎖反応を呼んだ。点から面へ。地図が引き起こす不思議な興奮。「番組はできた」と思った。

 慰霊碑の下にあったのは矢川の紙箱屋、渡辺の寿司屋、映画館、カフェと割り出し、生存者から当時の模様を収録した。紙箱屋は疎開して自らは無事だったが、両親と2人の姉妹を一瞬の閃(せん)光に失った長男の矢川淳三さん(54)=広島市佐伯区=が記憶をたぐった。

 慰霊碑の西隣にあった浄宝寺=同市中区=の住職、諏訪了我さん(62)は、両親と姉を亡くし疎開孤児になった身の上を語った。消えた町はそんな悲しい歴史をいっぱいに秘めた町だった。

 スタッフは万全の準備を整えカメラを回し始めた。人々に浄宝寺の本堂に集まってもらい、黒板の上の地図に「爆心半径500メートル」の復元を開始した。

 カメラの前では、事前の取材以上に人々の記憶がよみがえってきた。「そこは何じゃったかのー」「食堂のどん亀よ。どん亀のおかみはべっぴんだったよなあ」。懐かしさと、今は亡い人々への限りない哀惜と鎮魂の念を込めて、市民一人ひとりが語り始めた。

 番組は原爆慰霊碑周辺の130世帯を明らかにした。成功だった。企画段階で「趣旨はいいが、できるかな」と冷ややかに批判した編成課長も、「おめでとう」と頭を下げた。

 8月が過ぎ、9月、10月になってもNHKには爆心の元住民らから電話や手紙が続く。長屋さんは番組の継続を主張した。7月に代わった新しいデスクの田村豊さん(64)=川崎市在住=も継続を強く支持した。

 田村さんは広島市立中学2年のとき原爆に遭った。大手町5丁目に住む両親と弟は重傷を負いながらも幸い無事だった。が、同級生だけで100人を超す友人を失った。それだけに日ごろから被爆者を取材対象、素材としてしか扱わない一過主義、項目的な原爆報道に飽きたらないものを感じていた。

 「被爆者は、閉ざされた世界の中でしか悲しみ、苦しみ、おん念を語らない。体験したものにしか分からない、と最初からあきらめている。自分もそうだ。それが、この手法なら、個人の体験を社会化でき、市民のものとすることができる。全体を描くことができると確信した」

 田村さんもまだ若い35歳のデスクだった。

 スタッフの熱気、市民の反響はNHK局内にも飛び火した。翌67年夏の8月4日には、「爆心半径500メートル」の拡大版と言える全国中継の30分番組「現代の映像・軒先の閃光 甦った爆心の町」が東京から放送された。反響は一挙に全国に広がった。

 一方でNHK広島はより詳細な調査のため広島大原爆放射能医学研究所(志水清所長)と協力関係を結んだ。原医研も独自に爆心復元に類した調査を計画していた。単発的な報道が学術機関を巻き込んだ戦略的なものになる。

 田村さんは「自分が広島にいる間は、原爆報道は爆心復元だけでいい」と決意した。スタッフに長屋さんより一年先輩の金沢寛太郎さん(59)=現広島市立大教授=を新しく加える。広島局として爆心復元を正式キャンペーンとすることが決まった。

 翌68年3月20日、原医研を中心に爆心の中島地区の予備調査がスタートし、NHK広島では本格キャンペーンを開始した。朝の「県民の話題」、夕方の「お知らせ」などをフル活用、市民から寄せられる情報を紹介し、めぼしい動きはニュースで取り上げた。

 金沢さんは「原爆報道が8月だけの季節報道から日常的な報道へ転換した記念的な日々だった」と振り返る。調査・放送・反響・調査。テレビと市民と学問が見事に連携を取った。スタッフはこれを「三位一体」と名付ける。キャンペーンは約一年間続き大きな成果を上げた。

 69年に広島市が、70年に国が原爆被災調査費を計上し、爆心復元調査を2キロ以内の被爆実態調査へと結びつけた時点で、NHKは3人の中心スタッフを順次、東京へ異動させキャンペーンに区切りを打った。

 それから25年・。3人はNHKでそれぞれの仕事をこなしてきた。が、「ヒロシマ」は青春の思い出と共にいつも心の底にあった。田村さんは番組編成部長時代、「広島の8・6式典中継をいつまでやるのか」との見直し論に、「永久にやる」と言い、直接当時の坂本朝一NHK会長に伝えた。

 2年前に退職した田村さんは「被爆後、早々と広島を逃げた人間としては、仕事を通したこうした形で(亡くなった友人たちに)許してもらう以外になかった」と言い、直後の入市被爆なのに被爆者健康手帳をまだ取得していない。「生き延びただけでも負い目があるのに、そこまで…」と言葉を濁す。

 金沢さんは昨年、広島市立大国際学部の教授として広島に帰ってきた。「ぐるっと一回りして第2の故郷に帰った感じです」

 長屋さんは爆心復元が当初、目的としていた「一人ひとりの被爆者のデータを可能な限り細かく集め、保存する」との構想をコンピューターを使って実現したいと考える。

 「広島20世紀の遺産 エレクトロニック ヒロシマ メモリアル パーク」と名付けた具体的な計画書もできている。被爆者の写真、遺品、証言、原爆の絵などすべてをマルチ・メディアを使って電子空間に統合し保存、再現しようというのだ。

 「原爆ドームの保存は形。エレクトロニックパークは魂。2つが補い合ってヒロシマの真の保存と継承が可能になる。あのときは手段がなかったが、今ならできる」。29年前に火がついた情熱が再び燃え上がろうとしている。

<参考文献>「原爆爆心地」(志水清編)▽「爆心地」(広島折鶴の会)▽「ドームは呼びかける」(広島市)▽「原爆ドーム物語」(汐文社編集部)▽「アンヘルの名とともに・河本一郎小伝」(河口栄二)

(1995年5月7日朝刊掲載)

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