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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <17> 平和運動の黎明①

■報道部 福島義文

 広島が原爆を体験してからの10年間。惨禍の記憶も生々しいこの時期は、その3分の2が占領下だった。抑圧と巧妙な規制の占領政策のもとで、平和運動は労働団体などを中心に巻き上がって来る。黎明(れいめい)期と言うにはほど遠い苦闘の時代。「祈り」「願い」の枠を超えて、早くも「反原爆」の声が発せられた歴史があったことを、ヒロシマは忘れてはなるまい。原水禁運動の前史である。

 一方、科学が作り出した原水爆に人類の未来を憂え、「核と戦争」を問い続ける科学者の闘いも、戦後間もない時期から途切れず続く。

 戦争と、誤用された科学への悔恨、悔悟…。初期の運動には、抑え切れない原爆への憎悪や人間の良心が色濃く投影されている。

占領下「原爆廃棄」訴え 平和擁護広島大会議長の松江澄さん

 集会や大会の宣言文といえば、「…を宣言する」の言葉で終わるのが普通である。ところが、この宣言には、その後ろに45文字が付け加えられている。

 「人類史上の最初に原子爆弾の惨禍を経験した広島市民として『原子爆弾の廃棄』を要求します」

 まだ日本が連合国軍総司令部(GHQ)の占領下にあった1949年10月2日。広島市の広島女学院中講堂で開かれた「平和擁護広島大会」の宣言。この短い追加文こそ、被爆地広島から発せられた初の「原爆廃棄」アピールであった。

 大会を報じる翌日の中国新聞の記事はわずか12行。記事の裏にある「見えざる時代」のページを繰ってみる。

 広島県労働組合協議会(県労協)の会長だった松江澄さん(75)=広島市中区猫屋町=は、議長団席から会場を見守っていた。心配だった占領軍や警察官の姿がないのを確認し、まずはホッとしていた。大会は民間団体が開く初の本格的な反戦平和集会でもあった。

 「準備中にGHQ吉浦情報部から呼び出されましてね」。松江さんが回想する。世界労連「国際平和闘争デー」の一環。口火を切って集会開催に動いたのが県労協だった。当時、反戦、平和問題も含め、労働運動が閉塞(そく)された時代を切り開こうとしていた。松江さんは労働争議で起訴中の身でもあった。

 GHQ担当者が「どんな集会か」と聞く。「平和集会だ。戦前の日本のようなファシズムに反対する民主的集会である」と答えた。担当者の顔には、共産主義や過激な反戦、原爆集会を危ぐする表情が浮かんでいた。

 特に原爆には敏感だった。あの惨禍も「原爆は戦争を終わらせ、平和をもたらした」と正当性を流布していた。それを糾弾されては占領軍も困る。

 朝鮮戦争の1年前。被爆地では平和記念都市建設法による本格的な復興が始まる一方、東西冷戦はソ連の原爆所有で緊迫の度を増す。さらに共産国である中華人民共和国の成立を機に、労働運動への抑圧はより厳しくなっていく。中国の誕生は、まさに平和擁護大会の前日であった。

 会場のスローガンは「反戦」「原爆」を意識的に避けた。婦人団体や学識者の発言も「民主的権利の擁護」など、占領軍の矛先をかわす建前論が多かった。堅い論理が繰り返される会場。その空気を一人の女性が破る。

 思わず、山田欽子さん(72)=同市西区東観音町=が立ち上がった。「原子爆弾がなければ落とさないですむ。作らないようにしてください」。そんな内容の短い発言。組合に動員されただけの団体事務員の乙女を拍手が包んだ。

 山田さんは、新婚1週間で南方へ送った夫が戦死。入市被爆の身で、直爆を受けた母や2人の妹と懸命に戦後を生きていた。「原爆反対」が表に出るようで出ない大会に、いらだちを感じた末の発言だった。

 「市民を巻き込む原爆や戦争はイヤです。にわか発言でしたが、ごく自然な胸の内だったんです」。原爆から4年。外国軍隊の占領は怖い。だが占領軍の思惑とは裏腹に、被爆者は原爆を憎んでいた。

 松江さんは言う。「本当は何とか原爆決議もしたいと考えたんです」。しかしGHQに事前に見せた宣言文に「原爆禁止」の文字は入っていなかった。「反原爆」と分かっていれば、大会は中止だったろう。山田さんの発言は急きょ、宣言文に付け加えられた。読み上げられた宣言に、GHQのおとがめはなかった。

 松江さんは、原爆の廃虚に立って反戦を思い定めた。闘いの歩みの出発点である。東大時代に軍国色が際立って強まり、大学2年で召集。満州(中国東北部)の最前線に送られた後、国内の教育隊に戻る。満州の学友はソ連参戦で死に、シベリア抑留。「軍国の流れに従った悔恨」は抜き難い。

 そして原爆。8月20日ごろ復員した広島は焼け野原。上柳町の家は跡形なく、医師だった兄は即死で、死に場所も分からない。母も3年後に死んだ。「ヒロシマを離れまい」と決めた。

 「反戦運動は、母と兄を奪い、郷土を破壊した戦争と原爆に対する私の怨念であり、それを越えることなしには新しい社会を引き寄せることが出来ない関であり、生きるあかしでもある」。著書にそう書く。

 その熱情を抑え込むかのように、翌50年は暗い時代になる。朝鮮戦争の開始でGHQの抑圧はピーク。広島市警察本部も8月、一切の平和集会を禁じた。松江さんらは、それに抗して8月6日の非合法集会を計画する。こうなると、もう活動家だけの集会だった。「それでも戦争や原爆に反対の声すら出せないのは耐えられなかった」

 当日。警戒中の警官の目をくぐり、八丁堀の福屋屋上からビラをまく。市民が拾って読んでいるすきに、人込みに紛れていた約150人くらいがサッと集まり、シュプレヒコールを上げてパッと散る。広島駅前でもこの「瞬間集会」。松江さんは隠れ家にこもり、伝令役から状況を聞いていた。

 ビラには「朝鮮戦争をただちに止めよ」と書いた。「原子爆弾廃棄」は、この時もまだサブスローガンだった。

 詩人峠三吉は「原爆詩集」の中で、「一九五〇年の八月六日」と題して、このゲリラ集会を詩にする。峠は「平和擁護広島大会」議長団の一人。戦後の民主化運動を通じて松江さんとの交わりも深かった。「当日、彼は現場にいなかったと思うが、話を聞いたんだろう。あの日の運動を背負って『詩』に書いた。戦争に対する抵抗だったはず」

 サブスローガンとはいえ、ビラの「原爆廃棄」の文字には、広島に投下された原爆が再び朝鮮に落とされてはならない・との思いがこもっていた。「だからこそ非合法でも開かねばならない集会だった」と松江さんは言う。トルーマン米大統領が「朝鮮で原爆使用を考慮」と発言したのは、その3カ月余り後だった。

 対日講和条約が発効し、占領が解けた52年夏。原爆資料館前で広島地区労や文化、平和団体などが開催した「平和国民大会」は、宣言で「一切の原子兵器の製造と使用を禁止し…」と明確に打ち出す。大会に県労協会長としてかかわった松江さんは振り返る。「警官の監視は残っていたが、もう『原爆禁止』に文句を言う者はいなかった」。中国新聞の労組委員長を務めていた松江さんが、レッドパージで解雇されて、既に2年がたっていた。

 県議を5期20年、広島県原水禁の役員…。その後も一貫して反戦、反核運動の道を歩む松江さんは、この10年来、毎年8月に組織を超えた市民集会を開いている。反原発問題も含め、市民運動が弱まる中で「戦争と核」という不可分な問題を問い直し続ける。

 平和擁護広島大会が初めて原爆禁止アピールを発して46年。あの時、松江さんから開催協力を持ちかけられた浜井信三広島市長は、大会直前にこう連絡してきた。「占領軍が市平和協会の参加はまずいと…」。2人は高校、大学の同窓。原爆市長は大会に電報をくれたが、「原爆禁止」の言葉はまだなかった。

 苦しくも燃えた時代を、松江さんは分析する。「被爆という国民的体験は占領軍によって隠され、抑圧されたばかりでなく、多くの人にとっても心の奥に深くしまい込まれていた。ヒロシマの原体験がよみがえり、その怒りが噴出するのは『ビキニ(水爆被災)』を待たねばならなかった…」と。

日本ペンクラブ「広島の会」 平和への努力 内外に誓う

 文筆家たちの宣言文には、平和への熱情と決意がこもっていた。「世界平和擁護のためペンマンとし純粋誠実なる努力を誓うとともに、内外に宣言する」。占領下の1950年4月15日。広島市の瓦斯ビルで開かれた日本ペンクラブ「広島の会」も、戦後の画期的な平和運動の一つであった。

 川端康成、石川達三や原爆作家の原民喜ら文壇の担い手19人が被爆地を訪れ、初の大会と講演会(児童文化会館)を開く。雑誌社主催で被爆者との座談会まであった。作家が次々と演壇に上がる講演会は予定を2時間も超す盛況だった。

 後藤陽一さん(81)=広島大名誉教授、広島市佐伯区=は座談会で被爆体験を語った一人。「原爆を知ろうとする文壇の強い気持ちが伝わった。被爆国の作家として、『絶対平和』の追究が避けられない命題と確認する意義ある大会だった」。文学仲間の石川氏に誘われて座談会に出た中井正文さん(82)=同・廿日市市=は「原爆の悲惨さが強調されながら、原爆批判は出なかった。占領下、労力と勇気がいる開催だったろう」と回想する。

 大会のきっかけは、前年、広島市に招かれた川端会長らの被爆地訪問だった。帰京後の例会で役員が緊急動議を出す。「日本人は広島の悲劇を忘れかけている。広島の声こそ世界平和を守る戒めの声。同志よ、広島に行こう」。被爆から四年、心高ぶる提案であった。

 現在の日本ペンクラブは会員約千七百人。その平和委員会の委員長である芥川賞作家の新井満さん(48)=横浜市=は「宣言には原爆の惨状に触れた作家の純粋な気持ちがにじむ」と話す。

 かつて原爆資料館で、出身地の新潟が原爆投下の目標になっていたのを知って衝撃を受けた。自分の生命が宿った日を逆算したら45年8月15日になった。終戦が延びていたら命はなかった。「危うい命」を題材にして小説も書いた。

 今年3月、節目の年の広島で「平和の日」の集いを企画した。老若作家の戦争・平和トーク。平和の根底である「命の尊さ」を考える催しだった。作家はそれぞれのスタンスで尊い命を作品にする。その芽は四十五年前にあった。「『平和の日』は『広島の会』の現代版バージョンです」

<参考文献>「広島新史」(広島市)▽「ヒロシマから 原水禁運動を生きて」(松江澄)▽「日本ペンクラブ五十年史」(日本ペンクラブ)▽月刊「キング」(講談社)▽「原子と原子核」(小川岩雄)▽「核時代を超える」(湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一)▽「アインシュタインの生涯」(カール・ゼーリッヒ)▽「苦楽の園」(湯川スミ)など

(1995年5月14日朝刊掲載)

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