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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <18> 初期原水禁運動

■報道部 西本雅実

 日本の戦後平和運動の礎をつくり、リードしてきた原水爆禁止運動。それは1954年、米国がビキニ環礁で行った水爆実験によるマグロ漁船「第五福竜丸」の被災をきっかけに、草の根の国民大衆運動として起こった。

 東京・杉並の主婦や魚商が呼び掛けた水爆禁止署名運動は燎(りょう)原の火のように広がり、占領下ではタブー視されていた広島・長崎の原爆被害に国民的な関心を引き起こす。米ソの核開発競争に対し、被爆者救援を据え「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニを繰り返すな」という日本の平和運動が形づくられて行く。

 ビキニ事件に始まる初期の原水禁運動を通し、被爆(曝=ばく)体験はどのように「国民的な体験・記憶」となったのか。あらためてそれを見る。政党系列化で硬直した今の運動と違い、戦後ののびやかな息吹とエネルギーがあふれていた。

「水爆いや」草の根団結 「杉並アピール」を支えた人たち

 1年余で3259万人が賛同したみぞうの原水爆禁止署名運動。それは東京都杉並区の主婦たちの訴えから始まった・。

 有名すぎるとも言える定説である。しかし、署名運動そのものは、杉並で真っ先に始まったのでもなければ、自然に起こったわけでもない。

 占領下にあって「原子兵器禁止」のストックホルム・アピール署名にこたえた者や戦前からの活動家が、いち早く動きを起こした点を見過ごせない。

 1954年5月の「水爆禁止署名運動杉並協議会」の発足に先立つこと1カ月。「原爆マグロ」の影響でぱったり客足が遠のいた魚商、すし業者の代表500人が、築地中央市場講堂で「買出人水爆対策市場大会」を開き、「原爆・水爆禁止と被害補償」の署名集めに乗り出している。

 その大会を仕掛け議長を務めたのが、杉並で「魚健」を営んでいた菅原健一さん(89)。戦前の非合法時代から都内で労働運動に携わっていた。

 「印刷からビラまき、動員… 運動となるとどうしても経験がいる」。その筋金入りの経験を生かし地元でも署名運動を展開した。「あのときはただ『アメリカ反対』の偏った運動じゃなく、生活を守るという1点で業者も超党派で団結した。だからこそ急速に盛り上がり、広がった」

 店先でたちまち集まった署名と菅原さんたちの陳情を受け、杉並区議会は四月十七日、「水爆実験の禁止」を全会派一致で決議。そうした下地が、杉並公民館から始まる全区民を対象にした署名運動へとつながったのである。

 その公民館はビキニ被災事件前年の53年11月に開館し、館長を国際法の権威として知られた法政大教授の安井郁(かおる)氏が非常勤で務めていた。

 「安井先生を囲んでは毎月第一土曜日、社会科学の本を読み、戦争の原因はどこにあったのかなどを勉強していたんです。そこへビキニ事件が起き、私たち主婦も何かしなければと思い、署名集めを先生にご相談したわけです」

 「水爆禁止署名運動杉並協議会」の発足会議に出席した39人の1人である、大塚利曽子さん(84)を武蔵野台地に広がる閑静な住宅街に訪ねると、運動のきっかけをそう語った。彼女は、ストックホルム・アピール署名に協力した婦人団体メンバーでもあった。

 協議会は安井氏を議長に54年5月発足する。後に「杉並アピール」の名称で知られ、杉並を「原水禁運動の発祥地」とまで言わしめる訴えは、地域の学習活動の場であった公民館での話し合いで練られた。

 「全国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう」と呼び掛けたアピールは、初期原水禁運動の性格を明確に表す。

 いわく「この署名運動は特定の党派の運動ではなく、あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動でもあります」

 安井氏は杉並協議会の発足の場で、「平和運動という言葉を使用しない」と述べ、占領軍や政府に対する抵抗運動の様相が濃かったそれまでの「平和運動」との違いをはっきり打ち出していた。だれもが参加できる大衆運動を目指した。

 戦後民主主義のおおらかさ、庶民のみずみずしいエネルギーが初期の原水禁運動を貫いた。

 記録をひもとくと、協議会の出席者は公民館での婦人たちの読書会「杉の子会」や、魚商協同組合杉並支部、荻窪土建労組などのメンバー、科学技術庁初代事務次官となる区の中学校PTA協議会長や保守合同前の自由党区議の名もみえる。実に多種多様な人々が集い、それが水爆禁止署名運動の推進力になった。

 とりわけ、戦前の家族制度のくびきから解放され、台所をあずかる婦人層の活躍は目覚ましかった。

 「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジヨウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」

 婦人たちは、館長室にかかる「雨ニモマケズ」で始まる宮沢賢治の詩の精神で駆け回った。町内、街頭、子どもたちが通う学校で、率先して署名、カンパを集め、公民館に戻ってはそろばんで署名数を集計した。

 協議会発足わずか1カ月後には、区内人口の68%に上る26万5000人の署名が集まった。

 「魚が食べられなくなる」「放射能雨にぬれると死ぬ」。そう真顔で語られたように、そこには水爆実験による生活への素朴かつ深刻な不安が強く働いた。同時に、「戦争はもうこりごり」という戦後の国民的な感情があふれていた。

 こうして杉並での動きがモデルとなり、署名運動は他区へ、全国へ飛び火する。七月に入り、安井氏は「原水爆禁止署名全国協議会」の結成を呼び掛ける。

 湯川秀樹博士や奥むめお主婦連会長ら12人を代表世話人として全国協議会が誕生すると、杉並公民館が事務局となり、安井氏は事務局長に就く。その年の暮れには、原水爆禁止署名は2000万人を超え、翌55年の広島での原水禁世界大会開催へ一気につながる。

 国内外からの参加者はそこで、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニの被害者からの痛切な訴えを目の当たりにし、被爆(曝)体験を共有する。原水爆禁止が文字通り国民的な声になった。

 「子育てが務めと思っていた私が、初めはドキドキしながら運動に参加し、核兵器反対の訴えは間違っていないのを実感できた。本当に、のびのびやれた運動だった」。中野区在住の斎藤鶴子さんはそう言う。第五福竜丸平和協会理事を務め、85歳になる今も、「非核法」制定を呼び掛ける市民運動に取り組む。

 が、のびやかな原水禁運動の時代はそう長く続かなかった。60年代に入ると、社会、共産党の主導権争いで運動は分裂に向かう。大塚さん、菅原さん、斎藤さんもそれぞれの信念からたもとを分かち、やがて原水禁運動そのものからも離れた。

 原水協の初代理事長にも就いた安井氏は、63年の辞任声明に際して先の宮沢賢治の詩を引用し、こう述べている。

 「そのころの運動は、素朴ではあるが清純であり、明るさがみちあふれていた。杉並時代の無私の精神は(中略)正しいかたちにおいて生かされるべきであると思う」

 それぞれの政党や系列労組が「ジブンヲカンジョウニ入レテ」、原水禁運動は国民大衆から遊離した。杉並公民館も89年、老朽化のため消え、記念碑がぽつんと残っているだけだ。

原爆被害者の救済を求める 広島での原水禁世界大会を提案 藤居平一さん

 「東京ばかりか広島ですら、原爆被害者救援への関心は全くと言っていいほどなかった」。藤居平一さん(79)は広島市中区の自宅で、初期原水禁運動の一面をそう語った。日本被団協の初代事務局長である。

 東京・杉並で水爆禁止署名運動がうねりとなって高まる中、被爆地・広島でも独自に署名運動が起き、その年の9月には、「原子兵器の製造・実験・使用の禁止」を求める県内100万人の署名を国連に送った。

 藤居さんは市内で木材会社を営む傍ら市民生委員連盟理事(副会長)を務め、「原爆障害者治療費国庫負担」を呼び掛けていた。その目には、「水爆禁止」の名でそもそも始まった運動が決定的なものを見過ごしていると映じていた。

 原爆被爆者の存在と救援である。

 藤居さんは広島での原水爆禁止世界大会開催を提案し、何度も東京に足を運んでは、その実現を訴えた。世界大会の開催が決まると、広島準備会で引き受け手のいなかった財政面を担った。

 「原爆被害者をはずしては原水禁運動にならない。それなのに地元委員の中にも『被害者を入れたらうるさくなる』と言う者がいたほど。原水爆実験禁止だけにとらわれていた」。署名運動自体が東京中心、中央の発想で進んでいた。

 藤居さんたちは被爆者救援を大会の議題に据えるよう働き掛ける。参加者を民泊で受け入れ、被爆者とひざを突き合わせ話を聞く機会を設けた。それが、原水爆被害者の救済運動を呼び掛ける大会宣言「広島アピール」を生む。

 東大教授で戦後の民主主義運動の柱だった中野好夫氏は原水爆禁止について大会直後にこう著した。「やはりこの問題は(中略)遠くから感じているにすぎないという反省でした」

 日本被団協の結成は、その翌年8月である。

<参考文献>「ビキニ水爆被災資料集」(第五福竜丸平和協会)▽「第五福竜丸保存運動史」(広田重道)▽「死の灰を背負って」(大石又七)▽「歴史の大河は流れ続ける(1)(4)」(杉並区立公民館を存続させる会」▽「道 安井郁 生の軌跡」(「道」刊行委員会)▽「まどうてくれ 藤居平一聞書」(宇吹暁)▽「初期原水爆禁止運動の成立」(藤原修)▽「ゴジラ」(東宝ビデオ)

(1995年5月21日朝刊掲載)

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