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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <20> 宗教

■編集委員 小野増平

 原水禁運動、被爆者運動の足跡をたどる時、舞台裏を支えた宗教団体と労働組合の存在に気づく。宗教団体で異彩を放つのは、うちわ太鼓と黄色い僧衣姿で黙々と行動する日本山妙法寺。徹底した非暴力直接行動で、仏教界の平和活動に新しい地平を切り開いた。被爆直後から被災者の救援に尽力した、一貫して核兵器廃絶を訴え続けてきたクエーカーやローマカトリックを中心とするキリスト教の貢献も忘れることはできない。一方、労働組合では、組合活動がそのまま被爆者救援活動でもあった全日自労広島支部が目を引く。そこには戦後の半生を失対労働者と共に生きた一人の指導者がいる。また企業内組合に職域被爆者団体を結成し、平和、被爆者救援を組合運動の主要な柱とした広島の主要労組の役割も大きい。それぞれを代表する「群像」を見る。

「お題目」唱え平和行進 日本山妙法寺

 ポーランド・アウシュビッツと東京から今、2つの平和行進がヒロシマを目指して進んでいる。昨年暮れ、東ヨーロッパの凍える大地を踏みしめて歩き始めた「アウシュビッツ・広島・長崎 平和と生命のための諸宗合同巡礼1995」と、核兵器廃絶を訴え年輪を重ねる「’95平和祈念行脚」である。

 いずれも日本山妙法寺の僧が発願しての行進。アウシュビッツからの行進は現在、カンボジアに達し、「カンボジアのガンジー」と呼ばれる仏僧マハ・コーサナンダ師が先頭に立って歩く。8月1日には大阪に到着、日本国内の平和祈念行脚に合流し3日には広島入りの予定である。

 「南無妙法蓮華経」を声高く唱え、直径30センチ余りのうちわ太鼓を打ち鳴らし平和を願う黄色い僧衣の日本山妙法寺の僧。旧ユーゴスラビア、パレスチナ、チェチェン、アフリカ…。砲煙と銃弾の響きが絶えない世界中の紛争の地で、その名を知られる日本山妙法寺とは・。

 東京・渋谷区の渋谷駅から井の頭線で1駅。旅館や民家、質屋に囲まれた神泉町の一角に、寺というよりお堂に近い妙法寺の渋谷道場がある。僧の間に僧階がなく、本山も持たない日本山妙法寺の現在の「本部」である。

 山門もなく、山野草が無造作に植えられた路地からいきなり本堂の上がりかまち。おとなうと「南無妙法蓮華経」と合掌して尼さんが迎えてくれた。

 「南無妙法蓮華経のお題目を唱え太鼓を打つ『撃鼓宣令(ぎゃっくせんりょう)』によって、末世を救う。国を安らかにすることで、自然に民の生活もおさまるという日蓮聖人の『立正安国論』が、藤井日達(にちだつ)上人の教えの基本です」

 書籍やこまごまとした記念品が雑然と置かれた4畳半ほどの渋谷道場の書斎で松谷被鎧(まつや・ひがい)さん(70)が説く。日本山妙法寺を開いた山主、藤井日達さんが10年前に99歳で亡くなってから実質的な同山の指導者である。

 日本山妙法寺の「原理」は分かりやすい。仏教の教えの「不殺生」と、ガンジーから学んだ非暴力直接行動。この2つを柱に殺生につながる軍事や暴力に徹底して非暴力で抵抗する。戦後は一貫して反戦、反核、反基地闘争に加わり、権力に対峙(じ)してきた。

 藤井山主の言葉がある。「文明とは電灯のつくことでもない。飛行機のあることでもない。原子爆弾を製造することでもない。文明とは人を殺さぬことであり、物を壊さぬことであり、戦争しないことであり、相互に親しむことであり、相互に敬うことである」

 1885年、熊本の農家に生まれた。日蓮宗大学(現立正大)を卒業、浄土、真言、禅宗の各宗を学んだ後、満州(中国東北部)に渡り、1918年に遼陽に最初の日本山妙法寺の寺を開いた。

 寺とは名ばかりで、実態はコウリャンの皮でつくられた小屋。以来、日本山妙法寺は、檀家(だんか)を持たず、形にとらわれず、出家僧は妻帯せずを原則とした。檀家を持てば暖衣飽食し、妻帯すれば経済的な問題が起きることを懸念した。

 修行は常に街頭に身を置く。人々に身をさらしての巡礼、行脚。形にこだわったり、一カ所に安住すれば人の心は腐敗しやすい。果てしない自己研さん。「立正安国」が日本山妙法寺を支えてきた。

 日本山妙法寺と広島のつながりは深い。初期原水禁運動が大きく盛り上がった1958年に行われた初の広島・東京平和行進。かつて同寺の僧だった西本敦さん=62年、交通事故で死亡=が呼び掛け、日本山妙法寺の僧が中心になって歩いた。この行進がその後の日本山妙法寺の平和活動の原型となった。

 広島・東京平和行進に毎年参加し、今年が14回目になる武田隆雄さん(46)は、「生かされてある身として平和祈念行進は最低限のこと。こんなことでもしなければ申し訳なくて…」と言う。武田さんの1年は、2月に東京―焼津、5~7月に東京―広島、10月に沖縄と平和行進で明け暮れする。

 アウシュビッツ行進は笹森行周さん(44)が発願して始めた。昨年12月8日にアウシュビッツをスタートし、旧ユーゴスラビア、パレスチナ、イラクなどを経て3月末、インドに入ったときの一行は108人に膨らんでいた。日本山妙法寺の広島・アウシュビッツ行進としては、今は同山を去った佐藤行通さん(76)が中心に行った62、63年の行進に次いで2度目である。

 日本人、米国人を中心に国籍も宗派もさまざま、参加者もベトナム帰還兵、在日韓国人の兄弟、日本の元新聞記者など多彩。いずれもが歩くことで、自らを高め同時に世界平和の実現を念じている。

 広島市を一望する二葉山の頂上にある高さ25メートル、基底直径20メートルのステンレス張りの仏舎利塔。日の光にまぶしく反射する。被爆から8年後の53年、藤井日達山主が広島市を訪れ、建立を呼び掛けた。が、地元財界などが中心になって建立を計画していた仏舎利塔との調整がつかず延び延びに。結局、地元主導の塔は実現せず、66年に日本山妙法寺の塔が完成した。

 落慶法要で故浜井信三広島市長は「仏舎利塔は堅固な誓願こそが実現のカギ。多くの顕官、財閥の名をただ連ねてもだめなことがよくわかった」とあいさつした。

 その二葉山の中腹にある日本山妙法寺広島道場は、川岸行孝さん(48)が19年間、当主を務める。世界平和行脚のリーダーとして80年に7カ月、ソ連、東欧からインド、カンボジアを回った。行進で肝臓、心臓を痛めた。「体をこわして行進ができなくなった。健康さえ回復すれば今でも歩きたいのだが…」。川岸さんは遠くに視線を投げる。

 日本山妙法寺は今、インド、スリランカ、米、英など世界10カ国に30寺、国内に120寺がある。僧は約200人。民族紛争のスリランカで犠牲になった僧がいれば、旅先で病気になり、果てた僧もいる。

 「日蓮聖人の教えを信じ、ただ一途にお題目を唱え、身命を惜しまず平和を念じて歩く。頭で考えない。頭で考え始めると世間一般の平和運動と同じになる」。松谷さんは言う。身をていしての一途の祈りは過激である。が、宗教はもともと過激だった。それが知らぬ間に、葬式や結婚式の儀式宗教になり果てた。

 「若き僧の命惜しまぬ道心に 引かれて我も道を進まん」。5月4日、渋谷道場であった古希の祝いで、松谷さんは思いを込めてこう詠んだ。

「黒いローマ法王」 被爆者治療に献身 元イエズス会総長 ペドロ・アルペ神父

 歴代ローマ法王はヒロシマに深い関心を示した。なかでも現在のヨハネ・パウロ二世は1980年に法王として初めて広島を訪れ、広島市民をはじめ日本国民に大きな感動を残した。

 そのヨハネ・パウロ二世に被爆の惨状を進講したのがイエズス会の総長ペドロ・アルペ神父。ローマカトリック界の大立者であったアルペ神父が、原爆を受けた広島の混乱の中で、傷ついた被爆者を治療し、深く感謝された外国人宣教師の1人であったことを知る人は少ない。

 スペイン人のアルペ神父は38年に来日。4年後の42年に広島市郊外にあるイエズス会・長束修練院=広島市安佐南区=の院長に就いた。あの日、修練院は強烈な爆風に見舞われ、建物南側の窓ガラスは1枚残らず割れ、ドアというドアもすべて吹き飛ばされた。

 幸いにも負傷者はガラスの破片で顔にけがをした1人だけだった。が、間もなく大やけどを負った市民が押し寄せ、修練院は80人もの人々でいっぱいになった。

 図書室、談話室、聖堂は病室に、院長室は応急の手術室と化した。医学知識のあるアルペ神父が陣頭に立って治療に当たった。傷口をガーゼで覆い、硼(ほう)酸水で湿らして清潔に保つ。治療の効果があって修練院に収容された負傷者の中で亡くなったのは1人だけだったという。

 神父は54年、イエズス会日本準管区長となり、東京へ居を移した後、65年にはイエズス会最高位の総長となって日本を去る。総長を83年まで続け、イエズス会を伝統的な修道会から、社会正義や新しい神学理論を取り入れた新しい修道会へと変革した。

 黒色のイエズス会の法衣から、ローマ法王に対して「黒いローマ法王」と呼ばれたほどの実力者だったが、91年に83歳で死去した。

 神父の治療を受け一命をとりとめ現在、カトリック玉野教会の司祭を務める長谷川儀神父(64)は、昨年ローマ郊外にあるアルペ神父の墓にもうでた。長谷川神父は「半身を大やけどし何回も危篤状態にあったとき、奇跡的にアルペ神父が助けてくれた。ご恩を忘れることができず、自分もカトリック広島司教区の司祭になった。偉大な神父様でした」と懐かしむ。

 広島の被爆史から、イエズス会が百人近い被爆者を治療したことや、外国人宣教師が献身的に負傷者の治療に当たった事実などは、すっぽりと抜け落ちている。ヒロシマの恩人はこうしたところにもいたのである。(写真は長谷川神父提供)

<参考文献>「わが非暴力 藤井日達自伝」(山折哲雄編)▽「破壊の日 外人神父たちの被爆体験」(カトリック正義と平和広島協議会)▽「わしらの被爆体験 100人の証言」(全日自労被爆者の会編)▽「この怒りを忘れまじ」(国労被対協)

(1995年6月4日朝刊掲載)

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