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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <21> 草の根運動

■報道部 福島義文

 「時代の熱気」があるとすれば、1980年代初頭は1つの旋風が吹いた時代である。「草の根反核運動」と呼ばれた。戦域核配備に揺れる欧州の運動は、日本国内をも席けん。原水禁運動や政治の専門家だけでなく、市民各層の署名やアピールが相次ぎ、ビキニ被災以来の市民運動の高揚期とさえ言われた。82年の国連軍縮特別総会を取り巻く反核行動は、その頂点にあった。

 しかし、わずかのうちに運動は冷めた。国連に全面的な平和招来を託した「神話」も崩れた。市民運動の薄い基盤を露呈した時代の教訓を拾うとすれば、生活に根差した反核の運動を掘り下げ、広げることの必要性ではなかろうか。

 一方、公的な後ろ盾を持たない非政府組織(NGO)もさまざまな活動を通じてヒロシマを、平和を世界に訴えてきた。民間ゆえの運営困窮や安穏気分の社会に平和のくさびを打ち込む難しさ…。その壁を破るべく、被爆地では数々の灯が燃え続ける。ヒロシマから視点をそらさない地道な運動の継続の中にこそ、本当の時代の熱気ははぐくまれる。

雪かき分け反核運動 SSD2行動に参加した阿部四郎左エ門さん

 東に奥羽山脈、西に出羽三山。東北の空を遮る山々に囲まれた山形県最上郡金山町は、宮城、秋田県境に近い。人口7800人の山村に住む元教師の阿部四郎左エ門さん(74)は、1982年1月のある日、突然、妻に打ち明けた。「オラ、署名と一緒にニューヨークに行ぐ」。手元には、表紙がぼろぼろになった反核署名簿があった。

 「そりゃ、吹雪の日にも署名を集め、頑張ってましたよ。でも…」。すぐに賛成しなかったトモさん(66)だが、夫の意志の固さは知っていた。旅費50万円は退職金の一部。「晩酌をやめる」と口約束して、阿部さんが第2回国連軍縮特別総会(SSD2)の開かれるニューヨークに渡ったのはその年の6月である。

 SSD2に向け、反核3000万人署名を呼びかけた「核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議」事務局のある日本青年団協議会の代表団に加わる。やがて阿部さんは、摩天楼街を埋めた反核100万人行進の波の中で「ノーモア・ヒロシマ」を訴えていた。

 1カ月間、思い悩んだ末の署名集めだった。保守的な田舎。世間の目がある。「気が狂ったと笑われんべー」。妻はそう言った。

 しかし熟読する新聞からは、欧州の危機的な核情勢や国内外の反核運動の熱気が伝わっていた。高校の体育教師を定年で辞めて間なしに旅した西ドイツでは、核ミサイル配備の緊張感を垣間見ていた。

 核兵器の怖さに戦争体験が重なる。教師生活では正面切れなかった反核の心に火がついた。「1人でもできる運動を」。まず300人分の署名用紙を取り寄せる。

 ささやかな署名運動は、2メートル近い積雪の中で始まった。意を決して、隣の家の戸をたたく。「はいっとう(こんにちは)。原爆反対の署名、もらいに来だ」。真っ白な署名用紙に最初の名前が入った感激を忘れない。

 反発もあった。「核抑止力」を支持する人。「お前は革新政党か」と怒る人。そんな時は「革新でも、保守でもない。『1人党だ』」と返した。

 家々を回る富山の薬売りが、壁の署名ポスターを見て行商の合間に150人集めてくれた。教え子4人の協力もあった。署名は3150人にのぼる。山里を彩る花の色も目に入らない4カ月間だった。

 署名集めの中で、ある女性はこうつぶやいて鉛筆を握った。「夫は私が妊娠中に戦地へ出たまま帰らない。子育てや生活で苦労続き。戦争はこりごりです」

 阿部さん自身も旧制東京高師を繰り上げ卒業して応召。復員時の列車から見た広島の焼け野原に悪寒が走った。原爆4カ月前まで宇品の暁部隊にいた身である。妻の兄は基町の陸軍病院で被爆死。「もうすぐ退院です」のはがきが遺書になった。戦争や原爆への怒りを腹の底に納めた戦後であった。

 「署名に託された期待が胸に響いてね。反核や反戦の思いを代弁しようと…」。ニューヨークに出掛けた動機である。

 滞在11日間の行動は大学ノートに克明につづられた。阿部さんの「ニューヨーク日記」には、国連への期待と不安、そして失望が書き留められている。

 軍縮要請に訪れた中米の小国トリニダードトバゴ国連代表部はチクリと皮肉った。「非核軍縮は全面賛成。でも自国政府に要請する努力を忘れないで」。被爆国の責務を背負った国連行動だったが、その足らざる部分にクギを刺された。

 反核署名の提出式。国連本部前の広場に世界9カ国1億400万人分の署名簿が積み上げられる。目録がデクエヤル事務総長に手渡された瞬間、日本代表団のどこからともなく「原爆を許すまじ」の歌声が静かに広がった。

 しかし式はわずか10分余り。段ボールの山に混じる3000人余の「山形の心」は受け止めてもらえたろうか。署名届けの役目を終えた安どの中で、阿部さんは確信をつかみかねていた。

 6月12日。マンハッタンは空前の反核100万人行進で埋まった。国連前からセントラルパークまで約5キロの通りは、全米や欧州、日本などの反核市民であふれた。「戦域核配備に反対」「核兵器の凍結」など欧米の切実なスローガンとともに、原点の「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ」のプラカードも揺れた。

 海外の市民は乳母車を押し、買い物かごを抱え、気軽に行進に加わった。「動員でない自主的な行動が渦になってね」。市民運動の姿を見せつけられた。

 世界の反核の波に取り巻かれたSSD2は、世界軍縮キャンペーンに合意したものの、最大課題の包括的軍縮プログラムを採択できないまま閉幕する。東西陣営の対立に南北対立が絡む深刻な国際政治を反映した結果であった。

 「冷戦時代だからこそ、国連が神様のように思えて期待が大きかったかもしれない。ただ『国連信仰』にも限界が…」。世界の平和センターでもある国連に署名を届けることが半ば目的になった運動の区切りに、阿部さんは国際社会の現実をかみしめた。

 帰国後の秋、金山町の青年団や労働団体などが開いた阿部さんの報告集会は、「草の根反核1人旅」と銘打たれていた。報告会を機に「金山町平和を願う住民の会」が発足。しかし会は、町非核都市宣言の記念事業である「平和の塔」建設募金などを進めたものの、報告会から6年後、休眠状態になる。

 国内の反核市民運動はSSD2の後、次第に勢いを失った。「この町でも熱気のほとぼりが冷めたと言うか。平和運動は『非体制』との感覚をぬぐえず…」。青年団などもいつしか運動から抜けた。「正念場なんですがね」。阿部さんの視線の先に、1個の募金の缶が下がる。

 SSD2の翌年夏、阿部さんは原水禁世界大会の片隅で1円玉募金を呼びかけていた。広島で始まった「ヒロシマ平和基金」。浄財で平和活動を助成する市民運動である。国連から帰り、どんな活動ができるか焦りもあった。1円玉募金は1人でやれる新しい運動だった。

 阿部さんは今、山形県原水禁の代表委員を務める。団体から呼びかけがあり手を結んだ。毎年、平和行進と原水禁大会に参加する。だが組織の縛りはなく、基本は1人の運動を貫く。

 反核署名を通じ、阿部さんは多くの市民運動の仲間を知った。徳島県那賀郡鷲敷町の森静雄さん(87)もその1人。当時、森さんは地域の核廃絶署名を集め、戦争を知らない若い世代への「反核遺書」にする運動を進めていた。その森さんから2年前、一通の手紙が届いた。

 「悲惨で愚かな戦争が起こらない社会を若者に贈りたいと10年余りやってきましたが、余りに老い、余りに非力。資金面でも矢尽きる状態に至りました。しかし命ある限り『戦争と核兵器はいらない』運動にまい進したいと思います」

 阿部さんは返事を書いた。「小生も年を重ねるごとに、同じ悲哀を覚えます。が老兵はなお、徒手空拳(けん)でも・と、はやる気持ちを抑えられません」

 森さんは非核三原則の立法化運動の署名に余生を託している。阿部さんも庄内地区の高校生の平和の集いに、毎年、メッセージを送り続ける。「戦争ほど惨めで不毛なものはない」と。

 「反核の火」が熱く燃えたのは13年前である。「あの時代」と言うほど古くはない。阿部さんは、国連で「草の根」という言葉を自問していた。「草には花も実もつくが、その幹を支えるのが根だな」。見栄えではない。

 世間に気兼ねなく、自分の考えで運動できる風土、環境。「そうした社会の成熟こそ、草の根運動の目指すものだろうか」。今、そう反芻(すう)する。

 よれよれになった1枚のゼッケンがある。トモさんが縫った。平和大会や行進で、阿部さんがいつも胸につける。「この一歩、また一歩、平和への一歩」と書いてある。草が大地に根を下ろすまで。「明日の歩みを続けるゼッケンなんです」

<参考文献>「うつる『草の根かがみ』」(阿部四郎左エ門)▽「若い軌跡―広島市復興青年運動」(勝丸博行)▽「わたしの放浪記」(佐々木久子)▽「友愛」(ワールド・フレンドシップ・センター)▽「詩集『ヒロシマの顔』(森下弘)▽「平和の瞬間」(原田東岷)など

(1995年6月11日朝刊掲載)

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