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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <21> NGO活動

■報道部 福島義文

 「時代の熱気」があるとすれば、1980年代初頭は1つの旋風が吹いた時代である。「草の根反核運動」と呼ばれた。戦域核配備に揺れる欧州の運動は、日本国内をも席けん。原水禁運動や政治の専門家だけでなく、市民各層の署名やアピールが相次ぎ、ビキニ被災以来の市民運動の高揚期とさえ言われた。82年の国連軍縮特別総会を取り巻く反核行動は、その頂点にあった。

 しかし、わずかのうちに運動は冷めた。国連に全面的な平和招来を託した「神話」も崩れた。市民運動の薄い基盤を露呈した時代の教訓を拾うとすれば、生活に根差した反核の運動を掘り下げ、広げることの必要性ではなかろうか。

 一方、公的な後ろ盾を持たない非政府組織(NGO)もさまざまな活動を通じてヒロシマを、平和を世界に訴えてきた。民間ゆえの運営困窮や安穏気分の社会に平和のくさびを打ち込む難しさ…。その壁を破るべく、被爆地では数々の灯が燃え続ける。ヒロシマから視点をそらさない地道な運動の継続の中にこそ、本当の時代の熱気ははぐくまれる。

身削って紡いだ平和 バーバラ・レイノルズさんが開設した「友愛の館」

 白髪の端正な顔立ち、笑顔の優しさ…。「とても『平和の闘士』には見えない」とだれもが言う。広島市の特別名誉市民で米平和運動家の故バーバラ・レイノルズ夫人である。平和を紡ぐ信念を柔らかい物腰に包んだバーバラさんは、自らが創設したワールド・フレンドシップ・センター「友愛の館」で、物言わずほほ笑んでいる。

 「彼女の熱い思いに触れ、平和の実践に駆り立てられたのは私1人ではありません」。センターの現理事長で文教女子大教授の森下弘さん(64)は追想する。

 広島市南区皆実町3丁目の電車通り。看板がなければ見過ごしてしまいそうな狭い間口のセンター玄関の壁には、赤いピンがいくつも刺さった世界地図が張ってある。この家を拠点にヒロシマを学び、広げた人たちのネットワークである。

 被爆20周年の1965年8月7日。広島の名勝縮景園に、海外の平和運動家らを含む約80人が集まった。中心には白髪の夫人がいた。センター設立の会合である。

 バーバラさんが外科医の原田東岷さん(83)を訪ねたのは会合の直後だった。平和運動の組織を作ったと言う。「館長は自分でやる。理事長を…」。政治も、宗教もなく、海外からのヒロシマ体験を手助けし、被爆者の訴えを世界に伝える「窓口」を目指していた。急な依頼だが、原田さんはヒロシマに傾けるバーバラさんの熱意に共鳴、初代理事長を引き受けた。

 ネギ畑に囲まれた南観音町の2軒の民家が最初の拠点となった。入り口には「ワールド・フレンドシップ・センター」と縦書きされた小さな板が下がった。看板に比べてあまりに壮大な名前の運動のスタートであった。

 「広島の地を踏んだころの彼女は普通の主婦でね」。原田さんの旧懐である。その主婦が目覚める。ABCCに勤務していた夫らとヨットで出掛けた世界1周航海。各地でヒロシマを問われた。原爆への関心に反し、知らなさ過ぎる自分。祖国が続ける核実験にも疑念が沸いた。

 広島に帰ったバーバラさんは正面から原爆と向き合う。原爆症などを研究するため、原田さんの病院にも通った。60年ごろである。

 被爆者と触れ合う中でバーバラさんは大きな感動を得る。「原爆を落とした国の人間として引け目を感じていた。それなのに被爆者は憎しみを捨て、平和を一緒に作ろうと言ってくれた」。そこに「許しの心」をみる。ヒロシマに限りない愛を注いだ原点である。

 62年と64年、バーバラさんはヒロシマを世界に訴えるために世界平和巡礼を呼び掛け実行する。中でも64年の巡礼は被爆者や通訳ら約40人が米欧や旧ソ連を2カ月半回り、原爆の惨禍を知らせる壮大な計画。母親の残した財産をつぎ込む、赤貧を覚悟の旅であった。

 森下さんはこの第2回巡礼を機に平和運動の道に踏み込んだ1人である。計画を知った時の日記にこう書く。

 「人間のため、人間らしく生きるため、何を置いても参加したい」

 原爆で大やけどし、母を失い…。絶望感と無常観。高校教師になっても顔面に残るケロイドゆえ、物言わぬ被爆者の殻から抜け出せずにいた。長女の誕生で生命の尊厳さを知り、「同じ悲惨に遭わせたくない」と心を開きかけた矢先だった。

 巡礼団は学校や教会、家庭で被爆者の苦悩や相互理解の大切さを語る。一行が米国内を回り終えた時、資金は底をついた。ニューヨークの修養所で参加者は頭を寄せた。バーバラさんの苦渋の選択は、ヨーロッパへの旅の続行だった。募金をどう集めたか、だれも知らない。だが旅は完遂された。帰国したバーバラさんはやせていた。

 森下さんは後に広島県高教組被爆教職員の会会長として平和教育にかける。1人の被爆者に平和運動を選び取らせたのは、自分を犠牲にしてまで平和をたぐるバーバラさんの姿だった。

 この巡礼でバーバラさんと広島は一層深く結ばれる。「ヒロシマを世界平和の拠点に」。その夢を託すワールド・フレンドシップ・センター開設でもあった。

 その後、広島原爆病院の廊下で小わきに本を抱えたバーバラさんを見かけるようになる。被爆患者への朗読奉仕。センターの初期の活動には援護の色彩も強かった。

 ベトナム戦争が激しくなった時代でもある。原田さんらが支援組織を作って招いたベトナム戦傷児7人の救援活動の一端をセンターが担う。

 だが開設4年後、バーバラさんは母国に帰る。既に離婚の苦しみを味わっていた。関係者は「遣志を継ぐことこそ広島の責務」とセンター存続を決める。広島を離れて1週間後。届いた手紙には「広島は私の心の古里です」とあった。

 被爆30周年の75年8月。反戦思想の強いクエーカー教系の大学、オハイオ州ウィルミントン大学で開かれた「広島・長崎30年後」会議は、バーバラさんが手弁当で準備した平和会議であった。日米の運動家らが平和教育の推進などを討議する。

 被爆体験を持って参加した森下さんは呼びかけた。「戦争を起こさない強い意志を持つ世代の育成こそわれわれの任務」と。広島を去った後も原爆映画を抱えて米国内の高校を回るバーバラさんへのエールであった。

 大学構内には原爆資料を集めた「広島・長崎記念文庫」が同時にオープンする。バーバラさんが収集した原爆文献が、簡素な木造の建物に並んだ。センターの英訳班などが文献を翻訳して贈った果実。米国初の民間の原爆資料館は今も全米に資料が貸し出されている。

 バーバラさんと平和の道を探った同行者は限りない。第1回平和巡礼に参加した被爆者の松原美代子さん(62)もそう。当時の行脚の様子を、バーバラさんはこう記す。「ミヨコは耳を傾けてくれる人がある限り、語ることをやめようとしませんでした」

 松原さんは「心がバーバラから離れたことはありません」としのぶ。82年には一緒に全米29都市を横断する新たな平和巡礼をした。その死後も米国ヒロシマ行脚を3回。遺志を受け継ぐ1人である。

 センター開設以来、ここを足場に被爆の実態を学んだ海外訪問者は約1万人にのぼる。安い宿泊所であるとともに、会員の被爆者らが体験を語る「ヒロシマ発信」基地でもあった。日米の青年や教師交換計画も地道に続く。

 しかしセンターの運営はいつも苦しい。経費の大半は宿泊代や館長らが英会話を教えた謝礼で賄われる。歴代20人余りの館長も、米国などの教会からのボランティア派遣。公的援助に頼らない市民運動の台所は窮迫状態である。

 90年2月、米西海岸のロングビーチから、ウィルミントン大の記念文庫の整理に訪れていたバーバラさんはその地で急死する。心臓発作。帰らぬ母に、居合わせた2男は呼びかけたという。「平和のため心砕き、身を犠牲にして悔いなかった母がこんなにあっけなく死んでいいのか。一言も残さず逝くなんて…」

 ロングビーチの住まいはアパートの狭い2部屋だった。熱心なクエーカー教徒で、税金が軍事費に使われるのをきらい、収入を少なくして納税を避けた。だから年金すらなかった。

 葬儀は小さな教会で営まれた。参列者の多くはバーバラさんが面倒をみていたアジアの難民だった。が、その難民たちは葬式後の食事が本当の目当てだったという。

 自分の生活すべてをなげうった平和の闘いは、74歳で終焉(えん)した。式場にはバーバラさんの写真のほかに何もなかった。駆けつけた原田さんや森下さんらは、ヒロシマの心を込めて祭壇に花を飾った。

 ワールド・フレンドシップ・センターが開設されて今年で30年。「私も被爆者」。それが白髪の夫人の口癖だった。「被爆者と同じ立場に立って働かねば―の気持ちだったんでしょう」と森下さんは思いやる。

 バーバラさんが被爆地にともした灯。大きな炎ではないかもしれない。しかし原田さんは言う。「彼女がまいた平和の種は、みんなの心の中にこそ残っている。世界の平和にとってヒロシマが必要である限り、センターは続く」

広島・長崎 青年の思い熱く 原爆都市交歓会

 広島と長崎。その二つの原爆被災地の若者が、将来の平和を見据えた熱気あふれる集いだった。1949年11月に広島で第1回大会が開かれた「広島・長崎原爆都市青年交歓会」。焦土の復興と惨禍を許さない、純粋で一途(いちず)な青年たちの市民運動であった。

 「理屈じゃなく、原爆はもうイヤだった。会議は『あの悲惨さを繰り返すな』に終始しましたね」。当時、広島市青年連合会の委員長だった岩田幸男さん(72)=広島市南区=は回想する。原爆から4年。青年団は戦後の食料調達などに奔走し、存在感があった。その若者が立ち上がる。長崎の青年を迎えた広島の街は沸いた。

 市議会議事堂で浜井信三広島市長も「理想都市の完成は青年の不屈の努力に期待する以外ない」と歓迎した。熱を帯びる平和議論。採択した「誓い」はこう集約された。「両市の青年は再び戦争の惨禍と悲劇を繰り返さないよう、正義と平和の社会実現に努める」

 雑誌「酒」編集人の佐々木久子さん(66)=東京都新宿区=も、熱気の中にいた1人である。兄の影響で青年団運動に青春をささげた。千田町で被爆。父も5年後に黒い血を吐いて死んだ。50年に長崎で開かれた第2回交歓会にも参加、爆心の砂を木箱に入れて持ち帰り、広島の爆心地にまいた。「すくった砂は平和の思いを交わすあかしでした」

 両被爆地で交互開催された交歓会は、被爆者救済の羽根募金を実施するなど着実な歩みを刻むが、56年に終止符を打つ。原水禁大会が前年に始まり、被爆者救済も原対協が開設されるなど、一定の役割を終えたのが理由だった。

 被爆地広島は百万都市になり、青年団の存在感も薄れた。しかし、交歓会は18年前から「広島・長崎青年平和文化交流」と名前を変えて復活した。「惨禍の体験が風化する中、年1回でも原爆を考える時間を持ちたい」と広島市青年連合会の増田耕治委員長(28)。原爆学習を通して、先輩たちの平和精神を受け継ごうとしている。

 あの熱気から半世紀。当時、裏方役を務めた広島市育成課主事の勝丸博行さん(68)=広島県安芸郡海田町=らは、長崎での第2回交歓会で平和運動の士、故永井隆博士を訪ねる。原爆症で病床に伏す博士は、こう色紙にしたためた。

 「太田川の 水は逆さに流るとも 原子爆弾は 用うべからず」

<参考文献>「うつる『草の根かがみ』」(阿部四郎左エ門)▽「若い軌跡―広島市復興青年運動」(勝丸博行)▽「わたしの放浪記」(佐々木久子)▽「友愛」(ワールド・フレンドシップ・センター)▽「詩集『ヒロシマの顔』(森下弘)▽「平和の瞬間」(原田東岷)など

(1995年6月11日朝刊掲載)

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