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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <24> 平和教育

■報道部 福島義文

 被爆地の広島で産声を上げた平和教育は、世界で初めて原爆の惨禍を体験した被爆教師たちの身を切るような「いたみ」から始まった。傷跡の痛み、心の痛み…。教師たちはその苦悩を、平和な未来創造へのテキストにして「ヒロシマを忘れるな」と子どもたちに説き続けた。2つとない命を、幾万も奪い去った原爆。その体験を継承することは、尊い命を奪うものへの抵抗の教育でもあった。

 ヒロシマを教える試みの一方で、残された原爆文献や資料の奥に歴史の事実を探る営みも続く。惨状や被爆実態、援護行政の施策などを記す資料の収集、分析は、核の時代の真実をあぶり出す作業でもある。「教育」と「調査研究」。いずれもヒロシマを繰り返させない、絶えざる作業である。

 
平和教育にかけた被爆教師たち 傷跡 教材に「命」説く

 1つの言葉が女教師の胸を刺した。「先生、その腕、気持ち悪いね」

 夏でも半そでを着なかった。「なんで」と児童が不思議がるのも無理はない。悪気のない素朴な問いに、そっとシャツをまくり、ひじのケロイドを見せた。

 「原爆でね…」。過去の惨禍を断片的に語り始めたころである。中谷玉江さん(63)=広島市中区。小学校教諭だった。すでに原爆から20年近くたち、広島でも児童が直接、惨状を知らない時代になっていた。

 中谷さんは爆心1・4キロの南竹屋町で被爆した。進徳高女2年。校庭は修羅場に変わる。全身やけど。左足かかとの傷跡は、50年後の今もうずく。

 「原爆は背負うに余る重い荷でした」。子どもらの視線にやり切れず、家に帰ると沈む。慰める母に、罵(ば)声を返した。「勝手に看病して生かしたから、私が苦しむんよ」。母は着物のたもとで顔を覆うだけだった。胸を開こうと決めたのは、思い悩んだ末である。

 「広島県原爆被爆教職員の会」が1969年、結成された。その後の初会合で、中谷さんはつらかった過去を話した。自然に涙が落ちた。結成を呼びかけた石田明さん(67)=同市安佐北区=はその姿を忘れない。

 「平和教育の原点には、自らの傷跡を教材に、心の痛みを超えて原爆を告発したヒロシマの被爆教師たちがいたんです」。県内の被爆教職員は約3000人といわれたが、散在する教師の心と体の苦痛は無視されていた。

 爆心近くの電車内で被爆し、奇跡的に助かった石田さんも、教師になってから疲れでよく休み、父母らに非難された。被爆者の死が報じられる度、「今度は自分か」と不安にさいなまれ、自暴自棄にもなった。

 「原爆が教科書から消える中、放射能の障害を抱え、孤立しがちな教師が心を寄せ合って、再びヒバクシャをつくらない教育のために勇気を奮い起こしたのが教職員の会だったんです」

 被爆教職員の会が発足する2年前、石田さんは訪問先の東ドイツで衝撃を受けた。日本で細る教科書の原爆記述が、詳細に盛り込まれていた。日本占領解除後は丁寧だった記述が、58年の指導要領の改定を境に簡略になる。検定制度の拘束のせいである。

 「アンケートを集計しながら驚きましたよ」。被爆教師だった空辰男さん(67)=同市南区=も振り返る。広島県教職員組合が68年に実施した市内小中学校の原爆意識調査。「原爆投下日、時間」を正しく答えたのは小5で39%、中3でも71%。「原爆投下と被害を習ったか」は小5が12%、中3は41%しかなかった。

 教科書から原爆が抜け落ち始めた「風化と断絶」の時代。それはまた、親の目が受験体制に向き、ベトナム戦争の影響で「戦争ゲーム」に興味を持つ少年が増えた時期でもあった。空さんが、担任の子どもに戦争関係の本を持って来させたら続々集まった。

 こうした中、広島県教職員組合がこの年に初めて平和教育への取り組みを決議し、それが被爆教職員の会結成につながった。会の機関誌第1号には、被爆教師たちの決意がこう記されている。

 「私たちが沈黙していたらどうなるか。恐怖の経験を子どもたちに繰り返させてはならない。今こそ平和教育の先頭に立とう」

しかし道は険しい。中谷さんは転任先の小学校でも被爆体験を語り続けた。ところが校長は「偏向教育」と言う。惨禍をありのまま伝える試みを偏向と決めつけられた悔しさは忘れられない。70年代初めである。

 血うみが出続けた左足。たまる疲れ。中谷さんはついに倒れた。被爆した教師への配慮を求め、石田さんに手紙を出す。ちょうど被爆者就労調査で広島を訪れた参院社会労働委員会の自民党議員さえ、いまだに残る後遺症を心配した。中谷さんのもとへ飛んで来た広島市の教育次長は、被爆教職員の会への直訴が不満な様子だった。

 体の弱い中谷さんに、校長は「車いすを買うちゃる」と持ちかけた。学校内にスロープはなかった。「『辞めろ』の一言に聞こえましたよ…」。教べんを取る自信が揺れた。

 そんな気持ちを支えたのは、開設された「広島平和教育研究所」だった。自分も委員になり、大学の教師や同じ被爆教師らと月2回、勉強する。核情勢を学ぶほどに、最初の犠牲である原爆を伝える意味が重さを増してきた。

 「私が教師でなければ人の命に敏感でなかったかもしれない。しかし児童はかわいいもんじゃからね」

 72年6月、平和教育研究所の創立の日、中谷さんは宣言文を読んだ。研究所は、原体験だけでなく、核時代の全容を体系づける研究拠点だった。「平和教育がやっと認知される…」。そんな思いに、声が震えた。宣言文の書き出しは峠三吉の「原爆詩集」の序「にんげんをかえせ」だった。

 「被爆教師らは平和教育を『人類生存のための教育』と呼び始めたんです」と石田さんは言う。戦前、軍国少年だった石田さんも死を美徳と教えられ、信じ切った。神国の聖戦は人を殺すことだった。その戦争で原爆が落とされ、人が虫けらのように殺された。

 軍国教育と被爆体験から「人間は、死でなく、生きることこそ大事」と気づく。「人間の命の尊厳を教えるのが平和教育。生きることを妨げ、奪うものに抗する人間を育てる教育なんです」。それは生き残った被爆教師の責務でもあった。

 ただ被爆教師のこうした思いが染み込むには、長い時間を要した。広島の川から原爆かわらの発掘が進んだころ。中谷さんは熱線でただれたかわらを図書室に展示した。同僚教師は関心を示さない。何も言わず、じっと待った。1年後、担任の児童が「先生、大切にしたい」と言ってきた。

 かわらを材料にした碑の建設を児童会に諮り、募金4万円を集めて83年夏、原爆ドームを模した「平和の碑」が校庭に完成した。学校ぐるみの平和集会が始まるまで、さらに4年かかった。

 他の学校でも、教師自身が多忙を理由に平和教育から腰を引く事例は多かった。親も「テストに出ない原爆は教えてくれるな」と嫌った。被爆地でさえ、平和教育が好意的に迎えられたわけでは決してなかった。

 被爆教師らは独自の副読本を作り、「祈りの8月6日」中心だった原爆教育に、平和をつくり育てる道筋を示し続けた。原爆の被害に日本の戦争加害の視点を加え、飢餓や貧困、環境問題などにも目を向けた。今、全国からヒロシマ学習に来る修学旅行は約50万人に上る。

 だが…。風化と断絶の懸念は消えない。「積み上げた平和教育が将来も発展していくかどうか」。被爆教職員の会発足から4半世紀。石田さんの率直な胸中である。

 4年前に退職した中谷さんの耳にも「このごろ、平和教育の影が薄いよ」との声が届く。校庭の「平和の碑」に千羽づるがささげられることも少なくなった、という。

 戦後50年。石田さんは独白のようにつぶやく。「重苦しい節目です。突きつけられた諸情勢の中にヒロシマが見えてこない。被爆者が『生きていてよかった』と思える実感がない」。被爆教師として、1人の被爆者として見る内外の現実は厳しい。

 冷戦終結とはいえ大量に残る核。その廃絶の道筋が示されないまま無期限延長された核拡散防止条約。「被爆国」の3文字に隠された犠牲に目をつむって核大国に追随する日本政府。さらに被爆者の心を酌めない援護法や停滞する原水禁運動…。

 その中で被爆教師は老いを迎えた。石田さんの表情には焦りさえにじむ。「被爆国全体のアプローチ不足がうらまれる。原体験を伝え、核の惨禍を繰り返さない世界の合意を作っていくには、ヒロシマは一層厳しい道を歩まねばならない」

 しかし「ヒロシマを忘れた時、ヒロシマは繰り返される」。その確信だけは消えない。

 学校では被爆体験を持つ教師がほとんどいなくなった。世代交代はやむを得ないが、人類の未来のために語り続けた「被爆教師の心」は、後世の教師や親が引き継いでほしいと願う。

 被爆教職員の会は被爆50周年の今夏、広島で日米の親子ら約1万人を集めた平和集会を計画する。次世代への「遺言」を残す大会ではなく、明日への「継承」の集いにするつもりだ。

 被爆教職員の会ができて2年目の冬、ある女教師が逝った。会の初会合で、中谷さんとともに苦節を話した1人である。左ほおには一直線の傷跡があった。好きな人を愛することさえあきらめ、好奇の目に耐えながら子どもたちに被爆の体験を語り続けた。尾形静子さん。44歳だった。

 がんの病床で、最期の言葉1つも残せなかった。「死ぬまで原爆とつき合うんよ」。それが早逝の教師の口癖だった。今年2月、段原小当時の教え子が東区の寺で法要を営み、恩師をしのんだ。原爆を語る尾形先生の目に、いつも涙がにじんでいたのを、教え子たちは知っている。

(1995年7月2日朝刊掲載)

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