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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <25> 映画

■報道部 西本雅実

 原爆を扱った文芸、映画はその作品の数、内容とも豊かだとは言い難い。作家井伏鱒二氏は「『広島のこと』のような大事件は文学作品の対象とするには巨大すぎる。手にあまる素材である」と記した。それでも創作者たちは原稿用紙にフィルムの上に、原爆を通して人間の姿をとらえ、焼き付けようと挑んだ。

 「流行作家」の名をほしいままにした梶山季之さんもその1人であった。広島での文学青年時代から原爆を描こうと苦闘した。しかし、秘めた志を果たせぬまま倒れた。被爆直後の広島・長崎を撮った日本映画社の原爆記録映画は長い間「幻のフィルム」と呼ばれ、日本語版は今も政府の「検閲」下にある。

 被爆実態が途上解明にあり、その受難が続くごとく、原爆をテーマとする作品に「完」はない。だからこそ、つくり続られる必要があると言えないか。

今も政府の「検閲」下 被爆直後の記録フィルム

 さまざまな呼び名が、被爆ひと月余り後の広島・長崎を収めた貴重な原爆記録映画の受難を物語る。

 いわく「幻のフィルム」「顔のない映画」。なぜなら、その映画は国内で4半世紀近く見ることができず、日本語版は今も不完全なかたちでしかない。

 映画の原題は「EFFECTS OF THE ATOMIC BOMB ON HIROSHIMA AND NAGASAKI」(2時間45分)。文部省による日本語版タイトルは「広島・長崎における原爆の影響」という。

 1968年初公開された日本語版は、人体に関する部分を「検閲」よろしく13分間にわたりカットした。理由は「残酷なシーンは一般には公開しにくい」。それこそが「原爆のEFFECTS」であるのに…。そもそも日本人の手になる原爆記録映画のオリジナルが、なぜ英語版なのか・。

 映画は、戦前にできた国策の社団法人「日本映画社」が企画・製作した。

 「長崎がやられた直後に、特殊爆弾は原爆だという情報が入り、デスクと『記録に収めジュネーブの赤十字社を通しその非道性を世界へ訴えよう』となったんです。ところが敗戦となり、金もなく動きが取れない。それで、郷里が諌早の私がまず1人で向かったわけ」

 「EFFECTS」4人の監督の一人で長崎市に健在の伊東(現井上)壽恵男さん(83)は、原爆記録映画製作のきっかけをそう話した。

 3日分の米をリュックにかつぎ東京・銀座の本社を出発したのは9月7日。廃虚となった広島で1人ロケハンし、写真を撮った。

 この間、プロデューサーの故加納竜一氏=88年、84歳で死去=が率いるスタッフは、大本営の技術将校とともに8日広島を調査した理化学研究所の仁科芳雄博士たちを訪ね、撮影への協力を依頼。14日に文部省の学術研究会議が「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設置すると、日映スタッフはその記録映画班として認められた。

 撮影班は32人。「医学班」「生物班」など5つの班に分かれ、順次広島へ入った。撮影は9月23日から始まった。

 その調査委メンバーとの交渉に当たったのが、「物理班」を指揮した相原秀次さん(86)。訪れると埼玉県内の娘宅で当時の広島爆心地図を広げ、ないないづくしの撮影を振り返った。

 「熱線で金属が溶けたつぶを見つけてもアップのレンズがない。照明係はいても電源がない。室内が暗いと、動ける負傷者に外へ出てもらうしかなかった」。移動撮影は大八車やリヤカーに、ガラガラ音をたてるフランス製カメラを載せた。

 伊東さんは撮影班本隊の到着を待ち切れず、ひと足先に日映福岡支局のカメラマンを連れ16日から長崎で撮影を開始していた。

 悪条件は広島と同じ。何より「頭髪が抜けた少女、抱き合って支え合う母子。救護所で撮った人たちが数日後には地下の遺体置き場にいる」という地獄絵図のような現場に、目をそむけたくなった。それでも記録作家としてカメラを回した。

 本隊が長崎に入り、撮影を始めていた10月24日、爆心地近くで1人の撮影助手が進駐して来た米軍に捕まる。その3日後、撮影班責任者として伊東さんと相原さんが出頭すると「即刻、全員退去」の命令を受けた。

 映画の変転、受難はここから始まった。加納氏は自著「ヒロシマ二十年」でこう記す。「GHQから『原子爆弾に関する一切のフィルムを提出せよ』と命令が来た」

 12月18日。相原さんが35ミリフィルムを納めた缶を日比谷のGHQへ持参した。通訳を通し「編集し説明を付けなければ記録映画にはならない」と訴えた。急きょ呼び出された米国戦略爆撃調査団の撮影隊長が同意した。隊長はハリウッドMGM映画のカメラマンだった。が、製作を続けるには調査団の指揮下に入らざるを得なかった。

 編集作業は、調査団が本拠にしていた皇居前のビルと、GHQから解散を命じられ株式会社となった日映で行われた。相原さんは、MPが終始ドアの外に立つビル内の一室で編集用フィルムにハサミを入れた。

 英語ナレーションは内務省情報官で後にノルウェー大使となった島内敏郎さん(86)が当たった。「後にも先にも映画を見たのは、吹き込みしたその一度きりです」。なぜなら「EFFECTS」の題名で完成した映画は、GHQ主催の試写会が済むと日本を離れた。

 「ビキニの原爆実験を前に価値あるフィルムがワシントンへ」。46年5月16日付の「星条旗紙」はこう報じている。米軍は原爆の「EFFECTS(効果)」の機密を保持するため、映画だけでなく撮影に使った3万フィート(上映時間約5時間半)のネガフィルムそのものも押収し、持ち去ったのである。

 映画はいつしか「幻のフィルム」と呼ばれるようになる。米空軍保管下にあった「EFFECTS」が日本に返還されるのは実に21年後の67年である。

 ところが、政府は日本語版の作成、公開に当たり「人体への影響」部分を13分カットした。それを見た被爆者からは「原爆の残虐性が描ききれていない」と失望が相次ぎ、今度は「顔のない原爆映画」のらく印が押された。

 全面公開を求める声にも文部省は頑として首を縦に振らない。そこで広島市と市民が一丸となって70年に製作したのが「ヒロシマ・原爆の記録」(29分)である。作家大江健三郎さんは「被爆時の広島の記録フィルムをもとにしてつくられた、最良の映画というべきものであろう」と、試写を見た感想を記した。

 この映画には、文部省がカットした人体に関する部分も盛り込まれている。それは、なぜ可能だったのか。映画を監督した小笠原基生さん(68)は「全くの未編集ながら加納さん、伊東さんたちが決死の覚悟で残したフィルムがあったからですよ」と言う。

 戦略爆撃調査団の厳しい監視の目も常時、日映本社までは届いていなかった。そこで、4人の男たちが編集前のラッシュプリントをひそかに保管したのである。無論、発覚すれば占領軍命令違反で重労働の刑になるところであった。

 「原爆被害の重要な映像が失われるのはたまらない。1ロール(1000フィート)でいいから残したい。加納さんの指示で、大事だと思うシーンをネガから抜き出し、それをわざと二重現像したんです」。現在ではその4人の中でただ1人の生存者となった伊東さんは淡々と語った。伊東さんは戦争中にビルマで撮った記録フィルムを敗戦と同時に、陸軍省に焼かれた苦い経験があった。

 1万フィートを超すプリントは元撮影スタッフが開いた都内の現像所に事情を隠し預けた。広島・長崎の惨状を収めたそのフィルムが日映の後身の日映新社に戻り、その一部分がニュース映画で初公開されたのは52年。そのころには、原爆記録映画の撮影に参加した男たちの大半が日映を去っていた。

 伊東さんは長崎市役所に入り、後に市教育長を務めた。相原さんは加納氏と原爆の学術記録写真の編さんにその半生をかけた。

 「あれは映画としては未完成。米軍のための作品でしかない」と相原さんが言えば、伊東さんは「人体編をカットして何が『原爆記録映画』ですか」。老いても記録作家としての気概、こだわりをみせる。

 「EFFCTS」は、米国では35ミリフィルムがビデオ化され、完全版が簡単に手に入る。見ると胸打たれる。それが日本語版になると、文部省から16ミリフィルムを貸与されている広島市でも上映は「学術・教育目的に限る」「市長が適当と認める場所」などの制約がつきまとう。実質お蔵入りの状態だ。

 今も封じ込められた原爆記録映画を、日本語により完全なかたちで公開する作業が、米国から35ミリフィルムを手に入れた長崎市と、東京の市民グループ「平和博物館を創る会」の手で進められている。

 被爆半世紀を迎え、「幻のフィルム」の封が100%開く日は近い。伊東さんは「われわれが撮ろうとしたのは原爆の証拠であり、人間の被害なんです」。

 
ハリウッドから原爆まで撮った男 米調査団の故三村明氏

 日映の撮影隊に続いて翌46年3月、米国戦略爆撃調査団の撮影隊が広島入りした。イーストマン・カラーによる被爆の鮮烈な映像は70年、日本国内で一部が初公開されると反響を巻き起こし、市民による原爆記録映画の製作「10フィート運動」が始まる。

 その撮影隊にただ1人の日本人カメラマンがいた。三村明さん。85年に84歳で亡くなった三村さんは、日本映画史にその名を残す撮影監督であり、「映画の都」ハリウッドで日本人として初めてカメラマン組合に正式加入が認められた人物でもある。

 1919年米国へ渡った三村さんはニューヨークの写真学校で撮影技術を学び、日本人排斥が厳しかった中、34年までハリー・ミムラの名で腕を磨いた。帰国後はPCL(東宝の前身)に入社し、黒沢明監督のデビュー作「姿三四郎」など数々の傑作を手掛けた。

 その英語力と卓越した撮影技術が戦略爆撃調査団の目に留まった。日映側が乏しい撮影器材しかなかったのに対し、米側は豊富な物資を誇った。三村さんは、ハリウッド仕込みのあか抜けしたカメラワークで被爆を記録した。撮影リハーサルをし、廃虚での背景演出にもこだわった。

 三村さんの半生を描いたノンフィクション作家の工藤美代子さん(45)は「被写体がなんであれ、うまく絵にするというプロフェッショナリズムにあふれた人。米国側で撮っても、原爆の結果をきちっと映像化している」と言う。

 その戦略爆撃調査団の記録フィルムは米国でも長い間、政府の監視下にあり、一般に見られるようになったのは70年代後半に入ってからであった。

<参考文献>「天邪鬼 故原民喜氏のために」(梶山季之編)▽「実験都市」など(梶山季之)▽「梶山季之のジャメー・コンタント」(季節社編)▽「梶山季之の世界 追悼号」(別冊新評)▽「定本 原民喜全集」(青土社)▽「ヒロシマ二十年」(加納竜一・水野肇)▽「占領されたスクリーン」(岩崎昶)▽「原子爆弾」(仁科記念財団編纂)▽「映画への思い出」(井上壽恵男)▽「聖林からヒロシマへ」(工藤美代子)

(1995年7月9日朝刊掲載)

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