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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <26> 天皇とヒロシマ

■報道部 岡畠鉄也

 この夏、天皇、皇后両陛下は、広島、長崎、沖縄へと慰霊の旅をされる。戦後50年にあたり、戦争の被害が大きかった土地を訪問することにより、歴史の重みと苦しみを国民と共有したいとのお気持ちなのだろう。

 史上初の核兵器の惨禍を被った広島市民の中には、今なお「天皇」という言葉の響きに複雑な思いを抱く人も多い。とはいえ、昭和天皇が1947年、復興途上の広島を訪問されて以来、天皇の広島訪問は6回に及び、その記憶は市民の心に焼き付いている。

 ヒロシマと天皇のかかわりを検証し、さらに悲惨な体験を基にスタートしながら、時代とともに変質するわが国の非核政策を見る。

 
「実像」めぐり多様な声 天皇と広島市民

 「5万人の国歌大合唱が感激と興奮のルツボからとどろき渡る。陛下も感激を顔に表され、ともに君が代を口ずさまれた。涙…涙…感極まって興奮の涙が会場を包んだ」

 1947年12月7日。被爆後初めて昭和天皇を迎えた広島市の様子を中国新聞はこう伝えている。旧西練兵場跡の市民広場。昭和天皇はポケットから紙を取り出し、「広島市の受けた災禍に対しては同情に堪えない。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べた。

 「お言葉」に市民の興奮はピークに達する。沈黙が破れ、市民は帽子を、手を、ハンカチを振りながら、「万歳」と絶叫した。「市民の気持ちは1種独特のものであった。他国で苦労した子供が、理屈なしに両親に会いたくなる気持ちに似たものがあったように思う」。当時の浜井広島市長は著書「原爆市長」で市民の熱狂をこう振り返る。

 昭和天皇は46年から焦土と化した都市を歴訪する。天皇の人間宣言、不敬罪の廃止など皇室の民主化が進んだ時代だった。広島訪問は地元の強い要請で実現した。原子砂漠にもようやくバラックが建ち、復興への息づかいが街にあふれていた。

 戦争で最も過酷な犠牲を強いられた都市と「人間天皇」の出会い。市民が天皇をどう迎えるかに世界の目は集まり、多くの外国人記者も同行した。天皇自身の心にも複雑な思いがあったのだろう。後に侍従長を務めた故入江相政氏が、浜井市長に「広島市に入られるまでは何か物思いに沈んでおられるようにお見受けしたが、広島市を出られて後は、よほどお気持ちが明るくなられたようでした」と語ったという。

 原爆孤児収容施設、引き揚げ者寮…。「あっ、そう」と一見、そっけない言葉の連発だったが、市民は神格化のオリから解放された人間天皇への共感にあふれた。だが、その模様を複雑な思いで見つめる市民もいた。

 劇画「はだしのゲン」の作者である中沢啓治さん(56)は相生橋の近くに整列してパレードを待っていた。当時、本川小3年生。げたばきの栄養失調の足には寒風が吹きつけていた。

 「天皇制を否定していた父親の影響なのだろうが、家族3人が被爆死したのは天皇のせいだと思っていた。教師から歓迎のための日の丸の小旗を作れと言われても作らなかった」。万歳の声がだんだんと近づく。黒い車が中沢さんの前をさっと通り過ぎた。「背中は火がついたように熱くなり、汗でぐっしょり。今もあの感触は忘れられない」と回想する。その思いは作品に貫かれている。

 天皇の名の下に始まった戦争。その帰結として原爆があった。天皇の戦争責任を問う声もある。日本の指導層が「国体」、つまり天皇制護持に関心を集中させていたためポツダム宣言の受諾が遅れ、原爆投下を招いたという思いから、「遅すぎた聖断」に唇をかみしめる人もいた。

 原爆の悲惨のどん底で、愛する者が無残な目に遭わされたことへの人間的な怒りを通して、天皇の責任を問うたのである。しかし、こうした声は当時、表面に出ることはなかった。

 昭和天皇は47年、51年に続き、71年にも広島を訪問、初めて原爆慰霊碑を参拝した。「慰霊碑の前に立って、いまさらながら昔のことを思い出して胸が痛い」と述べ、比治山から市街を一望し「よくこれまで復興したものですね」と感慨にふけられた。

 入江相政日記には訪問の模様がこうある。「伝えられたような騒ぎはなにもない。皆喜んで泣いている人もいた」

 「騒ぎ」とは一部右翼と左翼系団体の動きである。左翼は「戦争、原爆投下の責任をあいまいにしたまま慰霊碑参拝を免罪符にしようとしている」と反対集会を開き、右翼は「(過ちは繰返しませぬからという)屈辱的な碑文の前に陛下がお立ちになるのは耐え難い」といきまいた。27万人の歓迎の人波の一方で、市民の反応は24年前とは明らかに違っていた。

 それから4年後の75年10月31日、宮殿・石橋(しゃっきょう)の間。昭和天皇初の訪米後の記者会見が開かれた。

 中国放送の秋信利彦記者(60)=現テレビ局長=は、記者席の最後列で高ぶる気持ちを抑えながら両陛下を見つめ、口を開いた。「原爆投下の事実をどうお受け止めになりましたのでしょうか」

 予定外の質問に会見場はざわついた。しかし、秋信記者にはざわつきは耳に入らない。天皇が体をこちらに向けてくれたことが素直にうれしかった。だが、その答えは、  「この原子爆弾が投下されたことについて遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒ですが、やむを得ないことと私は思っております」。その瞬間、天皇を見つめる皇后の表情が硬くなってゆくのが秋信記者にはわかった。

 「戦後30周年ということで、天皇と戦争のかかわりを問う声がさまざまな形で出ていた。広島の報道記者として原爆のことを聞くのは当然のこと。本当は天皇が原爆投下をいつ、どういう内容で知ったのかをお聞きしたかった」と秋信記者は振り返る。

 当初、代表質問に原爆の項目を加えてもらうよう要請した。が、質問案はもう出来上がっている。「関連質問は許されている」という示唆に戸惑った。終戦当時は小学6年生。戦前の教育を受けた人間にとって天皇に直接質問するのは重荷だった。

 雨が降る寒い日。そんな天候がますます気をめいらせた。緊張で全身から力が抜けそうになる。そんな秋信記者の脳裏に浮かんだのは10年前から支援している原爆小頭症患者の顔だった。「胎内で被爆し知的障害のため原爆投下の犯罪性をなじる言葉さえ失った人たちに代わって…」

 会見の模様はテレビで全国に放送され、その真意をめぐって広島市民に複雑な波紋が広がった。日本原水協や広島県原水禁は「核肯定への政治的利用を招く恐れがある」と談話や声明文を発表した。

 宮内庁は声明文に対し異例の回答を発表、「ご自身としては原爆投下を止めることができなかったことを遺憾に思われて『やむを得なかった』のお言葉になったと思う」と説明。皇太子(明仁天皇)も記者会見で「とっさの場合こちらの気持ちを十分に表せないこともある」と述べた。

 昭和天皇は終戦直後、米紙の特派員から戦争の予防に核兵器が有効では、との質問を受けた。しかし、天皇は「勝利者も敗北者も、武器を手にしては平和問題は解決し得ない」と述べている。、明確に核抑止論を否定した。それだけに市民は「やむを得なかった」という以上のお答えを期待していた。だが、その後天皇が原爆について語ることはなく、一部の市民にわだかまりを残したまま「昭和」は幕を閉じた。

 死没者の名簿増え行く慰霊碑のあなた平和の灯は燃え盛る<原爆慰霊碑>「実像」

 平(たひ)らけき世に病みゐるを訪れてひたすら思う放射能のわざ<広島赤十字・原爆病院>

 90年元旦に明仁天皇が発表した「お歌」である。昭和天皇逝去に伴う諸儀式の合間を縫って前年秋に訪問された広島の印象がよほど強かったのだろう、5首のうち2首がヒロシマを詠んだものだった。

 明仁天皇が初めて広島を訪問したのは49年、15歳の時である。「あの惨劇に2度と人類を陥れないよう、私たちは平和に向かって進まねばなりません」と初めて「お言葉」を読まれ、児童文化会館にかつて寄贈した本がボロボロになっているのを見て喜ばれたという。

 以来、広島訪問は7回を数え、平和記念式典にも参列。原爆資料館や原爆病院に度々足を運ぶなど、ヒロシマに深い関心を寄せられる。また、「日本が記憶しなければならない日」として広島、長崎への原爆投下日、沖縄慰霊の日、終戦記念日を挙げ、その日には黙とうを欠かされない。

 「陛下の心には、なぜ原爆が落とされなければならなかったのかという思いがあったのだろう」と、学習院初等科から大学まで同窓だった橋本明さん(62)=共同通信国際スポーツ報道部顧問=は語る。明仁天皇は若き日、父・昭和天皇の歩んだ道に疑問を覚えた。しかし、西園寺公望元首相の政治秘書だった原田熊雄氏の記録などを読むうちに父の言動を理解し納得するようになったという。

 「父・陛下の時代の体制がもたらしたものを真正面から受け入れ、現実の中で自分として何がなしうるかを反芻(すう)するお気持ちが深い。だが、憲法に縛られてなかなか物が言えない。だから、巡礼者のごとく黙って頭を下げ花をささげられている」

 明仁天皇は以前、橋本さんにこうささやかれたという。「いずれは国民も分かってくれる」と。

 今月27日、明仁天皇は原爆慰霊碑の前にあらためて立つ。

<参考文献>「入江相政日記」(朝日新聞社編)▽「天皇語録」(由利静夫、東邦彦編)▽「新天皇家の自画像」(薗部英一編)▽「天皇ヒロヒト」(L・モズレー)▽「天皇裕仁の昭和史」(河原敏明)▽「核・天皇・被爆者」(栗原貞子)▽「ヒロシマ・25年」(中国新聞社編)▽「日本の核武装」(小山内宏)▽「国連と日本」(河辺一郎)

(1995年7月16日朝刊掲載)

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