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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <29> 伝える(上)表現者たち②

■被爆50周年取材班

 「ヒロシマを忘れた時、ヒロシマが起きる」。被爆の惨状に人類の終末を感じ取った人々は、そんな思いを心に刻みながらさまざまな手法でヒロシマを紡いできた。

 そして50年。被爆が「体験」から「歴史」に変わる中で、ヒロシマを次の世代にどう伝えていかねばならないのか。1月から始めた「検証ヒロシマ1945・95」特集の締めくくりとして「伝える」をテーマに2週に分け検証を進める。

 1回目は文学、芸能分野でヒロシマを表現した小田実さんと、吉永小百合さん、扇ひろ子さんの思いと、「表現」を継承する若い文学者の足立浩二さんの考えを紹介する。

 年表では中国新聞が50年間に伝えてきた主な原爆企画を2週に分け掲載する。

被爆者の哀しみ投影 女優 吉永小百合さん

 ひとつひとつの質問をきちんと受け止める。時折、その端麗なうなじをかしげ、言葉を探る。「なぜヒロシマにこだわるのか?」。返事は、凛(りん)とした響きに満ちていた。

 「戦争、核兵器はあってはならない。『必要悪』と言う人もいるけど、決して繰り返してはならない。それは1人の人間としてちゃんと言う、言い続けるべきことだと思うんです」

 日本映画を代表する女優は、同時にここ10数年、反核・平和運動に積極的にかかわる。行動で示す。1945年生まれ。その半生は戦後の歩みと重なり合う。ヒロシマとの出合いは、66年製作の日活映画「愛と死の記録」主演がきっかけであった。

 原爆で両親を奪われたばかりか、白血病のため24歳で亡くなった1人の青年と、彼を追い服毒自殺した20歳の婚約者。この実話を基にした映画で、吉永さんはヒロインの「松井和江」にふんした。

 当時「原爆スラム」と呼ばれた川沿いの密集住宅街、青年が実際に入院していた広島原爆病院…。炎天下、まだ傷跡濃い広島の街でロケをした。渡哲也さんふんする青年から原爆症を打ち明けられる場面は、原爆ドーム内で撮った。

 「地面の下から原爆で倒れた人たちの声が伝わってくるような、言い表せない、胸が締め付けられる緊張感がありました」。自分が「和江」だったら…。その葛藤(かっとう)を全身でスクリーンにぶつけた。保存運動が起きていたドーム募金に、撮影スタッフ全員で協力した。

 しかし、公開作品からはドーム全景やケロイド女性と語り合うシーンがカットされた。少女時代から一家の生計を支え撮影所が学校代わり。そこで大きくなったとは言え、割り切れなさが残った。入学した早稲田大のキャンパスでは、ベトナム反戦運動の熱気が渦巻いていた。振り返って言う。

 「会社はやはり青春映画で売りたい。『暗い、悲惨な部分は表にしないように』という考え。本当に残念でした」。日活のドル箱青春スターとして、多いころには年10本を超えていた主演作も、会社の斜陽で、興行が何より優先した。

 再びヒロシマに向き合ったのは、テレビであった。81年から84年にかけNHKで全20回放映された「夢千代日記」シリーズである。

 そこで吉永さんは胎内被爆し、ひなびた温泉町で病と闘い生きる芸者・夢千代の哀(かな)しみと喜び、被爆者の生そのものを演じ切った。脚本は、郷里愛媛へ復員途中に被爆直後の広島を目に焼き付けたシナリオ作家早坂暁さん。

 「初めは、夢千代はどうしてあんなに人にやさしいのか、不思議でした。それが演じているうち、つらいからこそ、やさしくすることで自分を勇気づけてるってことが分かったんです」。夢千代の内面を知り尽くすからこそであろうか、語りながら瞳(ひとみ)が潤んだ。

 夢千代のつらさは、産声を上げる前に被爆したやり場のなさと言う。「それを引きずって生きなくちゃいけない彼女と、自分の幸せをどうしても対比させてしまうんです…」

 吉永さんの父芳之さん(89年死去)は戦地にいったん船で向かったが、病気で下船した。「その後で船は撃沈されたそうです。父があの時帰されなければ、私は生まれなかった。その違いは重い」。3人姉妹の次女である吉永さんは、東京大空襲の3日後に生まれた。

 夢千代への思いが強かっただけに、85年には映画でも演じた。しかし今となっては悔いがうずく。彼女の死で幕を閉じたことだ。「懸命に生き続ける人を殺してはいけなかった。被爆者の人たちに対しても取り返しのつかないことをした気がするんです」。言葉が沈んだ。

 そのころから、被爆者や団体との交流を深める。直接に核兵器廃絶を訴えるようになった。国際平和年の86年、日本被団協などが主催した東京の集会に初めて参加。広島の被爆者、故大平数子さんの詩「慟哭(どうこく)」を朗読した。

 以来、自主製作映画「ヒロシマという名の少年」や「ビキニの海は忘れない」でナレーターをボランティアで引き受けた。2度目の原爆ドーム保存募金にも広島のテレビ番組出演料を寄贈した。「非核東京宣言」「非核三原則の法制化」署名運動の呼び掛け、賛同人でもある。

 吉永さんはきょう「8月6日」を広島で迎える。文通を続ける広島高校生平和ゼミナールが主催する「ノーニュークス(核はいらない)コンサート’95」に友情出演するためだ。

 「俳優ですから原爆の文芸作品を朗読することは、とてもやりがいがある。それに自分も戦争、原爆の意味をきちっと考えたい。若い世代に平和を語りかけるのは私にとって一番大事にしたい表現の場でもあるんです」。そう話す目は、代表作「キューポラのある街」の少女ジュンそのもの。明日を見つめる輝きがあふれていた。

  
歌手 扇ひろ子さん 時代の刻印 今も鮮明に 31年ぶりに歌う「原爆の子の像」

 白のブラウスに黒のプリーツスカート。1964年の平和記念式典で、平和への祈りと、まぶたの父への思いを込めて清楚(そ)に「原爆の子の像」の歌を歌った。あれから30回の夏が過ぎた。

 「今年ちょうど50歳。やりたいことはやったし、華やかな歌手生活も経験した。『もういいか』といったところです」。かつての少女歌手、扇ひろ子さん(本名、田辺博美)は今、にこやかにほほえむ。

 生後6カ月、爆心地から約2キロの段原中町で被爆した。建物疎開に出ていた父親を失い、若い母親はひろ子さんを四国の祖母に預け、生きるために水商売へ。祖母はひろ子さんを自分の娘として入籍。戸籍上、ひろ子さんは母親と姉妹の関係になった。

 演出された被爆者の面も強い。しかし、被爆者健康手帳をいつも手元から離さない。20歳過ぎのころ母の勧めで取った。手にしたものの、かえって不安感が募り破り捨てた。母にしかられ再取得…。自分は被爆者であるとのこだわり、意識はいつまでたっても消えない。

 この11月、歌手生活30年記念リサイタルを開く。これまで意識的に原爆を語ったり伝えたことはない。しかし、今度のリサイタルでは31年前の夏に歌って以来、唇にしたことのない「原爆の子の像」の歌も歌うつもりである。

 「戦争、原爆で人生が大きく変わった世代のメッセージを込めて歌いたい」。華やかな人生にも時代の刻印があせることはない。

 ときどき訪ねてくる母を「きれいなおばさん」と思って育った。そのきれいな人が母親だと名乗り、今度は養女として大阪にいた母の籍に入ったのは小学校4年生のとき。母はそれまでの不在を償うようにひろ子さんにさまざまな稽古(けいこ)ごとを習わせた。

 子ども心にも母の苦労がわかった。「歌手になってお金をもうけ、母の面倒をみてあげよう」。9歳か10歳の日の決意だった。

 19歳。コロムビア・レコードから「赤い椿の三度笠」でデビューが決まる。が、歌の先生遠藤実、石本美由起さんらが、「被爆者なら平和式典で歌ってデビューしよう」と働きかけ、急きょ「原爆の子の像」の歌をつくって発表となった。

 デビュー後は、「哀愁海峡」「新宿ブルース」とたて続けにヒット曲を飛ばし、昇り竜シリーズなどの映画にも出演した。スターダムにのし上がり、そこからの転落も経験した。独立し、自分のプロダクションもつくった。私生活のうえでも離婚、再婚…。波乱の人生が続いた。

<参考文献>「資料原爆報道」(広島大原医研)▽「夢一途」(吉永小百合)▽「キネマ旬報」(キネマ旬報社)

(1995年8月6日朝刊掲載)

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