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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <29> 伝える(上)表現者たち①

■被爆50周年取材班

 「ヒロシマを忘れた時、ヒロシマが起きる」。被爆の惨状に人類の終末を感じ取った人々は、そんな思いを心に刻みながらさまざまな手法でヒロシマを紡いできた。

 そして50年。被爆が「体験」から「歴史」に変わる中で、ヒロシマを次の世代にどう伝えていかねばならないのか。1月から始めた「検証ヒロシマ1945・95」特集の締めくくりとして「伝える」をテーマに2週に分け検証を進める。

 1回目は文学、芸能分野でヒロシマを表現した小田実さんと、吉永小百合さん、扇ひろ子さんの思いと、「表現」を継承する若い文学者の足立浩二さんの考えを紹介する。

 年表では中国新聞が50年間に伝えてきた主な原爆企画を2週に分け掲載する。

投下責任の所在 明示 作家 小田実さん

 大震災のツメ跡が残る兵庫県西宮市。「予言してたんや。いいかげんなことばかりやってきた日本。戦後50年のツケが燃えていると思ったね」。川べりにあるマンションの5階、小田さんは早口でまくし立てる。ガラスが割れたままの本棚がある。1月17日午前5時46分。この本棚が寝ている小田さんの頭上を襲った。

 「こいつで助かったんや」。ベッド脇にあるコピー機に目をやった。倒れる本棚を支えてくれたのだ。その時、コピー機の上に1枚の紙があった。著書「HIROSHIMA」(81年)の英訳本をラジオドラマ化したいという英BBC放送からの書類である。「不思議やろ」。行動する平和思想家の戦後50年は、そのツケがもたらした破壊とヒロシマが奇妙に絡み合う中で明けた。

 そんなわけで、8月6日の放送にあわせロンドンに行く。そこで反核メッセージを発表。26日には米に渡り、ユダヤ系米詩人ローゼンバーグ氏がナチによる大量虐殺を詠んだ詩と「HIROSHIMA」に曲をつけた朗読劇に参加する。「ヒロシマ50年。僕にとってもまさに節目の年なんや」

 敗戦の夏。中学1年だった。8月14日の大阪大空襲。200メートル先に1トン爆弾がさく裂した。横たわる黒焦げの死体。彼が「難死」と呼ぶこの「一方的な殺りくによる無意味な死」は、以後の生き方と思想を決定づける。その空襲体験を下敷きに小説「HIROSHIMA」は生まれた。

 「原爆で米軍の兵士も殺されたという噂(うわさ)話が戦後の大混乱の中でささやかれていた。調べてみたら事実だった。書けると思ったね。米軍兵士は被害者であり加害者であるわけで、われわれの問題でもあるから」

 小田さんは原爆投下を被害の側面ばかりでなくあらゆる差別と悲劇の積み重ねと考えた。アフリカの「奴隷労働」で掘り出したウランを基に米先住民を追い出した実験場で開発し、日本軍が玉砕したテニアンからエノラ・ゲイが飛び立つ。そして、閃(せん)光の下には多くの朝鮮人や大東亜共栄圏の名の下にアジア各地から集められた南方特別留学生がいた。

 「こうした全体構造の中で原爆をとらえると、あの悲劇は何だったのか。だれに責任があったのかがはっきりしてくる。米大統領と天皇だ。英訳本の『H』というタイトルはヒロシマのHでもあり、天皇のHでもある」

 「HIROSHIMA」は第3世界最高の文学賞であるロータス賞を受賞する。原爆を侵略からの解放の象徴ととらえるアジアを含む国々の評価だけに素直に喜んだ。また、米ワシントン大のトリート教授は著書「WRITING GROUND ZERO」の中で「HIROSHIMA」を、体験を基にした原爆文学から核文学へブリッジするものと位置づけた。

 「日本の文学者だから原爆体験から離れることはできない。ただ体験だけでは今の核状況に対応できない。欧米では広島、長崎で起きたことを核戦争とは見ず通常戦争の終結との見方も強い。そのギャップは大きい。彼らにとって核戦争は想像の世界なんだ。だから、フランスのようなごう慢な国が出てくる。核戦争を否定する思想、ヒロシマの普遍化が必要なんだ」

 ヒロシマは「語り部」ではなく「考え部」になれという。そのために何をどうすればよいか。「戦争責任、侵略責任の問題が基本にないと普遍化できない。その責任を追及しないまま、また原爆投下責任も不問にしたまま、被害だけを訴え何となく50年たってしまった。そんなあいまいさの盲点を突いたのがスミソニアンにおける退役軍人の反応ではないか」

 戦争は被害者を加害者にしてしまう。家族と切り離され戦場に駆り立てられた兵士も虐殺に加担する。だから悲惨なのだ。ベ平連の結成もそんな思いからだった。

 「それまで日本の平和運動は被害者の運動だった。だから求心力を失った。ヒロシマと従軍慰安婦の問題は無関係のように見えるが根っこはつながっている。だって、50年たっても責任を取ろうとしない国だから原爆が落とされても仕方がないとアジアの人はみるよ」

 8月6日、ドイツの高校生50人が広島にやって来る。小田さんが中心となって10年前に組織した日独平和フォーラムの一行である。「両国とも正義の戦争なんて存在し得ないということを知る世界でただ2つの国や。その象徴がヒロシマではないか。だからヒロシマはもっと強力に被災の思想を語る責務があるんや」

 高校生はロンドンの小田さんに連動してフランスの核実験に抗議する声明を発表する。「ところで、広島市長はなんでフランスに飛んで行って、エリゼ宮の前で座り込まんのや。世界にものすごいインパクトを与えるんやけどな」

 
若い世代からのメッセージ 「群像」新人文学賞優秀賞 足立浩二

 私は今静かに、そして内省的にこう問わなければならない、私が口にする平和とは一体私の如何(いか)なる体験によって支えられているのだろうか、私は自分のどのような選択によって広島を語るのだろうかと。

 私のようにもはや戦後ではないと謳(うた)われて尚(なお)10数年を経て生まれたものにとって平和を語るということは、語ることを引き受けるという或(あ)る自発な選択である。しかし語ることが空疎な形式に陥る時、われわれは自ら選択したという自覚を忘れがちだ。それを自動化作用と云(い)ってもいい、例えばわれわれは自ら行っているにも拘(かか)わらず歯を磨くことや箸(はし)を持つことを取り立てて意識せずに反復している。

 しかしそれらが生まれながらの習慣ではない以上、われわれは人生のどこかでそうすることを選択したはずなのだが、それを忘れてしまっている。同じことが例え平和について語ることにおいても起こる。

  ◆

 しばしば批判されることだが、われわれは高校までの歴史教育で日本の近現代史を教えられることが少ない。ドイツが教科書の何分の1かをナチス犯罪に割いているのと比べると受験中心のカリキュラムを組まざるを得ない現在の学校の在り方を改めて考えさせられるし、皮肉な言い方をすれば意見の錯綜(そう)したものを民主的に教えることの難しさに自ら落ち込んだ戦後民主教育のパラドックスさえ感じてしまう。

 しかし問題なのは教えられないこと自体ではない。すべてを学校におんぶに抱っこさせることが学校の機能をがんじがらめにしているのだとすれば、教えられなくても各人が個人的に調べるぐらいの気構えは必要だろう。学校が教えてくれなかったという何とも厭(いや)らしい言い訳は、知らないことの損害は各人個人が背負わねばならないことを忘れている。

 われわれが考えねばならないのは、現在の学校では15年戦争の具体的な事実は教えないにも拘わらず、それと直接結び付いているはずの反戦や平和といった理念だけは教えてしまっているということだ。

 歴史的事実から切り離された理念は抽象的観念的にならざるを得ない。果たしてわれわれはそれらをリアルに感じることが出来るだろうか。

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 現在と直接地続きの歴史について語りたがらないのは何も公的な教育機関ばかりではない、われわれの家庭においてこそそのような機会が顕著に失われてしまっている。最も身近な存在であるはずの父親なり母親なりがどのような歴史を経て今在るか、われわれはどのくらい知っているだろう。

 1つ屋根の下に暮らしていながら、まるで家族同士が抜き差しならないリアルな人間と人間として向かい合うのを惧(おそ)れるかのように、われわれは自らの歴史を語ることを避けているのではないか。自分の家族がどのような歴史を持ち、どのような考えを持っているか知らないということは結局その人間がどんな人間なのか知らないということであり、延(ひ)いては自分自身がどんな人間か誰にも知られないということである。

 これはやはり異様な光景だろう。このままではわれわれの周りには家族という制度としての、学校という制度としての、社会という制度としての抽象的な人間しかいないということにもなりかねない。

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 個人的であった体験はやがて世代を経るに従って歴史的事実という一般性にまで遠ざかってしまうのは如何ともし難い。それを歴史の風化と嘆くだけではなくて、それだからこそわれわれは語り継がねばならないのだろう。

 肝要なことは語られた言葉を如何にリアルに感じるかということであり、われわれはそれを積極的に選択するしかないことを自らに確認することである、何故(なぜ)ならわれわれに体験がない以上語られた言葉によって想像するしかないのだから。

 大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』の扉に次のような言葉がある。<池では、死体のあいだを、生きた鯉がおよいでいました>無論われわれはこのような鯉を見たことはない、しかしこの言葉はそのようなわれわれにもリアルな感触で原爆の悲惨を激しく喚起させずにはいない。

 広島には、そして今尚戦争の続く世界にはこのような言葉が満ち溢(あふ)れているだろう。われわれとしてはそれを空疎な形式として反復するのでなく、そのリアルな感触を維持したまま次の世代に語らねばならない。

 戦争の体験がなく平和を語ることは恐ろしく困難なことである。しかしその困難な体験こそが、これからわれわれの語る平和を支えていくのではないだろうか。

<参考文献>「資料原爆報道」(広島大原医研)▽「夢一途」(吉永小百合)▽「キネマ旬報」(キネマ旬報社)

(1995年8月6日朝刊掲載)

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