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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 最終回 <30> 伝える(下)中国新聞①

■被爆50周年取材班

 「平和は戦争の後にしかやって来ない」との悲観論が支配したこの50年、幸いにも世界規模の戦争はなかった。ヒロシマ、ナガサキの体験が核兵器の残虐さを人々の脳裏に刻み、恐怖のバランスが核の使用を瀬戸際で押しとどめてきた故なのだろう。被爆都市のつとめは、その被害を世界に伝え続けることにある。常に新しいイメージと力でヒロシマ、ナガサキを伝え続けることができれば、体験の磨滅はなく、新しい悲惨を食い止めることも可能となろう。中国新聞のヒロシマ報道の半世紀はそうした試みの1つでもあった。「検証ヒロシマ1945・95」を終えるに当たって「中国新聞は何を伝えたか」を振り返る。

 
◆被爆から50年代まで

 100人を超す社員を失い、本社を全焼した中国新聞は、その日のうちから新聞相互援助契約に基づき朝日新聞大阪本社、毎日新聞西部本社、島根新聞(現山陰中央新報)に代行印刷を頼み、「報道の継続」に全力を傾注した。代行印刷紙は8月9日から配布、15日の敗戦まで「新型爆弾、特殊爆弾」の残虐性を訴え、「蓋(ふた)付き防空壕で被害を少なくできる」など戦意高揚を図った。

 自社印刷は敗戦後の9月3日付から再開した。同11日から13日までの紙面は、広島市を調査に訪れていた東大医学部の都築正男博士を囲む座談会「原子爆弾の解剖」を3回連載。中国新聞としては原爆の威力、放射能の影響などを具体的に伝える初の報道となった。新聞は裏表1枚のペラで、被災1カ月を経て被害の甚大さが身にしみて感じられ始めたころである。

 9月14日、GHQ(連合国軍総司令部)の同盟通信の記事検閲が始まり、19日、GHQのプレスコードが発令された。前日の18日、「原爆使用と病院船攻撃は国際法違反であることは否定できない」との記事を掲載した朝日新聞が48時間の発行停止処分を受けた。

 しかし、中国新聞は枕崎台風の影響で9月17日、再び発行不能に陥る。再度、大阪朝日、西部毎日に代行印刷を依頼し、自社発行再開は11月5日付からとなる。

 自社発行を始めた中国新聞は、11月10日から、「復興する町内会」のタイトルで6回連載、壊滅的被害を受けた市民を励ました。中国新聞の原爆報道を「被害」「復興」「慰霊」「継承」「平和」の5本柱にあると見れば、「原子爆弾の解剖」は「被害」、「復興する町内会」は文字通り「復興」報道のはしりだった。

▽平和の聖都強調
 プレスコードによって原爆報道がどれほど影響を受けたかを明確に言うことは難しい。が、プレスコード発効後も中国新聞紙面に多数の原爆関連記事が載ったことは間違いない。むしろ敗戦によって軍部のくびきから解放され、初めて手にした「自由と民主主義」に酔ったと言った方が正確ではないだろうか。

 1946年から49年ごろにかけ中国新聞には「平和」「ノーモア・ヒロシマ」の活字が躍り、世界初の原爆の洗礼を受けた「世界のヒロシマ」、「平和の聖都」としての復興が強調された。「平和と民主主義」に基づく紙面作りは占領軍の意向とも合致していた。

 しかし一方で、被爆者が苦しんでいた放射線後障害の恐怖はこの時期、あまり大きく新聞紙面には登場してこない。日本人全体が貧しくて、健康状態も悪く、被爆者が突出していたわけではない―なども理由の1つであろう。が、それ以上に原爆の悲惨を報道することが「反占領軍的」であるとするGHQの意向が働き、記者自身も強く自己規制していたことは間違いない。原爆の悲惨さに対しマスコミの目を閉ざさせた点にプレスコードの大きな罪悪があった。

▽朝鮮戦争の衝撃
 こうした中で50年6月に始まった朝鮮戦争は新聞に限らず、日本の歴史を再び暗転させた。この年、GHQの命令で広島市主催の「平和祭」は中止となり、マスコミなど各界にレッドパージのあらしが吹き荒れた。それまで比較的自由だった「平和報道」に圧力がかかる。中国新聞のこの年の原爆報道はほぼ「慰霊」「復興」ものが中心となる。翌51年に至っては連載は「原爆十景その後」(10回)といったスケッチだけで、平和運動には冷淡な紙面となった。

 52年、前年調印した対日平和条約が発効し、日本は独立を取り戻す。53年には朝鮮戦争も休戦協定が実現。再び新聞に自由の空気が戻る。しかし、新聞紙上では被爆者の「被害」は大きな問題となっていない。わずかに「原爆乙女」と「原爆孤児」が関心を集めていただけである。被爆者は「同情されるべきかわいそうな犠牲者」であり続け、新聞は「原爆被害」に対して「同情」の視点にとどまっている。

▽国の責任追及へ
 状況が大きく転換するのは54年のビキニ水爆事件である。焼津市の漁船第五福竜丸が「死の灰」を浴びたのを契機に、かつて経験したことのない大規模な国民運動、「原水爆禁止運動」が燃え広がる。広島、長崎の被爆者が運動の中心に取り上げられ、56年には日本被団協が発足する。「同情」と「憐れみ」の対象でしかなかった被爆者が、自ら立ち上がり、国家の戦争責任を問う立場へと変化していったのである。

 中国新聞もこうした動きに呼応し、精力的にニュースを掘り起こす。そして55年7月、正面から被爆者の苦しみを取り上げた初の企画「業火を越えて」(7回)、原爆孤児青年の生活記録「あれから10年 私はこうして生きた」を連載した。

 さらに時代の動きをまとめる連載記事として59年に「ヒロシマの砂」(8回)、61年には被爆から16年の広島を総括する大型企画「星は静かに動いた」(32回)を掲載し、62年は被爆者、遺族、原爆孤児、医療関係者の証言を通して、「原爆が人間の生活と思想に何をもたらしたか」を問う企画「ヒロシマの証言」(33回)を連載し、被爆者報道の原型をつくった。

寄稿 中国新聞に望む 環境・テロ問題…現代と接点を 児玉克哉さん

 原爆投下から50年の年月が流れた。この歴史はそのまま中国新聞の原爆報道の歴史でもあった。

 日本においては、「マスメディアは中立でなくてはならない」という一般的な見解がある。しかし、平和と戦争という価値に対してもマスメディアは中立であるべきなのだろうか。平和の問題は、まぎれもなく人間の命と尊厳の問題であり、このことに対しては安易な中立はありえないはずである。中国新聞のこれまでの膨大な量の原爆報道は、マスメディアが平和の問題に対してとるべき姿勢を示しており、大いに評価されるべきであろう。日々の中国新聞の報道の積み重ねは、まさに「ヒロシマの記録」であり、人類史的価値を持っているといって過言ではない。

 今後の中国新聞の原爆・平和報道の在り方を考えることは、「ヒロシマ」を展望することにほかならない。私たちは被爆50周年を、冷戦の終焉(しゅうえん)という状況のもとで迎えている。この時代設定の中で、「ヒロシマ」は何を求め、何を主張するのか。冷戦下の核軍拡競争の時代にあっては、「核兵器」そのものの脅威が突出しており、ヒロシマの使命はとにもかくにも被爆の実相を世界に伝え、核軍拡競争に終止符を打つことであった。その冷戦が終わった今、「ヒロシマ」の意味が鋭く問われている。

 これからの原爆報道のスタンスは、過去の蓄積を踏まえながらも、単なる踏襲ではなく、新たな知的挑戦をしなければならないであろう。冷戦は終わったものの、今なお膨大な量の核兵器が残り、核拡散の不安のある現在、被爆の実相を世界に伝えることの意味は失われているわけではない。しかし、「ヒロシマ」は核兵器の問題だけではなく、さまざまな地球規模の問題を関連づけながらとらえ、新しい時代における実践性を獲得する必要がある。環境破壊、難民、地域紛争、テロなど勃発(ぼっぱつ)する現代の諸問題を「ヒロシマ」はどのようにとらえるのか。「ヒロシマ」の視点のもとに、諸問題の接点を探り、総合的に把握し、解決への糸口を模索することこそ、被爆50周年以後の中国新聞に求められている姿勢と思う。被爆・平和の問題をさらに多角的・包括的に考えることによって、「ヒロシマ」は核時代の本質に迫ることができるのではないだろうか。

 この大きな課題を前にし、中国新聞の原爆・平和報道は、新聞としてのメディアの壁を破り、さまざまな分野の人と連携をとることが不可欠と思われる。大学、テレビ、市民団体、行政などと積極的に連携し、分野を超えた協力と発想をもって、もっと自由で挑戦的な取り組みが望まれるだろう。こうした姿勢の有効性は、すでに爆心復元運動やアキバプロジェクトなどでも証明されている。さらにダイナミックな挑戦を時代は要求していると思う。

 冷戦は終わったが、「ヒロシマ」の意義は薄れるどころか、ますます大きくなっている。その中で中国新聞の果たす役割は重い。中国新聞が「ヒロシマ」を多角的に、そして多元的にとらえ直し、さらに高いレベルの原爆・平和報道がなされるよう願ってやまない。

原爆報道 OBからひとこと 「こう思う」もっと書け

▽兼井亨さん(74) 広島市東区戸坂大上
 1962年の企画「ヒロシマの証言」は、原爆で運命を変えられた被爆者の体、心、生活に焦点を当てた意味で、当時として画期的だった。平和式典の記事などはそれまでもあったが、被爆者の実態はあまり報じられていなかった。中国新聞の原爆報道は全体に客観報道だが、平和、民主主義の問題なども含め、「自分はこう思う」「一体、どうすりゃええんか」をピシッと書けないか。より具体的な方向性を打ち出すことが今、求められている。実感するのは、米などで原爆の実相が浸透していないことだ。その悲惨さや平和の尊さ、日本や米国が戦争で何をしたか―を知らせる方法が足りなかった。こまめに、地道に浸透させる方法をさらに考えるべきだろう。(80年10月退職)

▽平岡敬さん(67) 広島市西区古江東町
 被爆50周年から後は、ヒロシマ、原爆報道が影をひそめるのではと懸念する。生の被爆体験を語れる人も少なくなる。人の心を動かすにはヒロシマを、芸術や平和の思想・哲学にまで昇華する必要がある。ヒロシマの思想、運動はこれまで批判を受けず、1種タブー視されたことからあいまいになり衰弱した。例えば原爆慰霊碑に刻まれた「過ちは 繰返しませぬから」の過ちについてもそれぞれの考えにゆだねてきた。私は過ちは「人類が核兵器を開発し、これを使ったこと」だと思う。こうした1つひとつをあいまいにせずきちんと詰める必要がある。マスコミはヒロシマの芸術、思想化のためにさまざまの人を登壇させ育ててほしい。(89年12月退職)

(1995年8月13日朝刊掲載)

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