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3.11とヒロシマ

『フクシマとヒロシマ』 第2部 浜通りの50人 <3> 着の身着のまま

■記者 山本洋子

理由分からず ただ避難

 畳が敷かれた教室にちゃぶ台やふとんが並ぶ。避難住民は割り当てられたスペースで生活のリズムを取り戻そうとしていた。埼玉県加須市の廃校。福島第1原発が立地する福島県双葉町は約190キロ離れたこの地に臨時の役場機能を置き、住民の1割強に当たる約千人が避難生活を送る。

「なるべく西へ」

 「着の身着のままで逃げた」と、町婦人会長の中村富美子さん(59)。下着など最低限の日用品は、何とか手に入れた。避難生活は3カ月を超え、疲労の色は隠せない。

 運転開始から40年の原発。町の雇用や商売を支えてきた。原発と地域の「共存共栄」。それが一気に暗転したのが、3月11日の事故だった。何が起きているのか。どのくらい危険なのか―。東京電力や原発推進の旗を振った国から十分な情報は町に届かなかった。裏切られた。町民の胸にその思いは拭えない。

 「なるべく西へ逃げてください」。震災から一夜明けた12日朝。切迫した状況を告げる町の防災無線に、避難所にいた中村さんは「原発が危ないと初めて気づいた」。自宅に戻る間もなく、追われるように別の避難所に車で逃げた。

 同じく無線を聞いた農協職員小畑明美さん(44)は「津波にしては大がかりな避難指示だと感じた。でも数日間だろうと高をくくっていた」と振り返る。家から持ち出したのは、防寒着に膝掛け、子どものゲーム機。「避難の理由が原発事故なんて知らなかった」。そしてこんなに長く避難生活が続くとは想像もしなかった。

 周辺自治体に出された一斉の避難指示に、幹線道路は大渋滞した。路側帯には燃料切れの車が乗り捨てられた。歩いて避難する住民も列をなした。

 町議の谷津田光治さん(70)は信号の消えた交差点で交通整理に当たった。「消防も警察も町職員の姿もなかった。放っておくとパニック状態になると思った」

帰宅の望み薄く

 原発から20キロ圏内の警戒区域では今、住民の一時帰宅が進められている。中村さんも津波に襲われた古里に戻った。集合場所で与えられたのは、上下に分かれた薄い防護服。自宅は原発から約5キロ。本当にこれで放射線が防げるのか、と不安になった。

 「一時帰宅のまま双葉に残れたら」。そんなかすかな望みは、目に見えない放射線への不安と津波にやられた町の現実を前にかき消えた。「もう戻れないかもしれない」。指定のビニール袋には孫の写真と貴重品だけを入れた。

 一方、小畑さんは当面、一時帰宅するつもりはない。「町に戻って本当に放射線の影響はないのか。素直には安全を信じられない」からだ。「国や東電は今も大事な情報を伝えていないのでは」。その不信感がある。

(2011年6月19日朝刊掲載)

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