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3.11とヒロシマ

『フクシマとヒロシマ』 第3部 被爆地の変化 <2> 「2度の『あの日』」

■記者 河野揚

恐怖と恩恵 心揺れる

 福島第1原発が制御できなくなった「あの日」から4カ月。原発が立地する福島県大熊町で唯一の被爆者池田中(あたる)さん(85)は現在、秋田県にかほ市にある次男登美雄さん(59)の友人宅で避難生活を送る。

 2度までも核に人生を振り回された―。そんな思いが胸に反すうする。1945年の「あの日」。夜になって焼け野原になった広島に入った。当時、旧陸軍船舶通信隊に所属。約1週間、死体の処理に従事した。

 終戦後に福島に戻り、県に就職。被爆者健康手帳も取得した。後遺症は出なかったが、健康不安はつきまとった。実際、近くに住んでいた被爆者4人はがんなどで亡くなった。

事故後続く自問

 「核の怖さは知っていた。原発はあの原爆と同じ技術。心の中では危ないと感じていたけど、事故はないとどこかで思ってた」

 そして原発事故後、自問している。被爆者として自分は原発にどう向き合うべきだったのかと。

 大熊町の自宅から5キロ先に福島第1原発が建設され始めたのは67年。当時、農業以外に産業がなかった大熊町民の多くは建設を歓迎した。隣の双葉町に掲げられた看板の標語は「原子力 明るい未来のエネルギー」。地元説明会で東京電力は「日本は資源が乏しい。いずれ原子力の時代がやってくる」と熱心にPRしていた。

 道路や公共施設が整備され、それに伴って飲食店などが次々にできた。雇用は最大の魅力。70年に7750人だった町の人口は、10年後、9296人と2割増えた。「当時、県は原発推進一色。原発反対なんていう雰囲気はなかったね」

 次男の登美雄さんは77年、東京電力の関連会社に就職した。「父が被爆者とは知らなかったんです。僕は安定した会社に就職できたと喜んだ」。第1、2原発で放射性廃棄物の運搬と管理を担当した。父からは「放射線には注意しろよ」とだけ言われた。父にはずっと割り切れない気持ちもあったんだろうと今、思う。

「原発はタブー」

 「原発はタブーだった」。福島県原爆被害者協議会の星埜(ほしの)惇事務局長(83)はこう打ち明ける。県内には現在、広島と長崎での被爆者92人がいる。ただ家族に原発作業員がいる人や、経済的な関係のある人もいる。核兵器廃絶を訴える一方で、反原発を打ち出すことはなかった。

 突然クローズアップされた平和利用の暗の部分。「平和利用という言葉に踊らされていた。情けねえ」。池田さんは1号機の水素爆発の映像が、脳裏に焼き付いて離れない。ただ自分の家族も含め、地域がこれまで恩恵を被ったのも事実。続ける自問の答えはまだ出ない。

(2011年7月14日朝刊掲載)

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