×

3.11とヒロシマ

『フクシマとヒロシマ』 第4部 被爆者医療 66年の蓄積

■「フクシマとヒロシマ」取材班

 あの日から66年となる8月6日が近づく。この間、ヒロシマは探究を続けてきた。放射線が人体にどのような影響を与えるかを。被爆者の犠牲の上に立つその蓄積を今、福島第1原発事故でおびえる人々に生かす。

 今年は広島大に原爆放射能医学研究所(現・原爆放射線医科学研究所)ができて50年の節目。同じ年に広島原爆障害対策協議会(原対協)は原爆被爆者福祉センターを開所し、被爆者の健康管理や生活支援を担った。放射線影響研究所(放影研)は約12万人の追跡調査を続けている。フクシマで期待されるヒロシマの医療。その歴史を振り返る。


臨床・研究両面で期待

 被爆者たちのカルテが、書棚にぎっしりと並ぶ。原対協の健康管理・増進センターの一室。「ここには8万人分だけ。すでに亡くなった10万人分は別室です」と担当職員が明かす。1950年代の黄ばんだカルテから最新のものまで、定期健康診断を受けている一人一人のファイルが番号管理されている。

 原対協の前身は53年、被爆者への医療を組織的に行おうと医師会や市などが発足させた任意団体「広島市原爆障害者治療対策協議会」。被爆者のケロイド治療に奮闘していた開業医たちがその中心となった。前年の対日講和条約の発効で連合国軍総司令部(GHQ)による情報統制の「封印」が解かれ、被爆者救済の機運が一気に高まった時期でもある。

 56年には、広島赤十字病院の構内に原爆病院も開設された。翌年、被爆者の悲願だった原爆医療法も施行。原爆投下から約10年を経てやっと、国の責任で医療と健康管理をする体制ができた。

 開院の翌年から82年まで原爆病院に勤めた元内科部長の石田定さん(85)=南区。被爆者から「慈父」と慕われた故重藤文夫院長の下、外来と病棟を埋める患者たちと接した。

 「当時、最も多かったのは急性白血病。その後で肺がんなどが増えてきた。毎日が手探り。目の前にある命が救えず、何度となく無念さを味わった」

 60年代には自治体の要請で北海道や富山などに出張。そこに住む被爆者の健診をした。復帰前の沖縄や、70年代になっても援護の手が届いていなかった韓国への派遣団に加わり「被爆者はどこにいても被爆者」を医療面から実践した。

 45年8月6日、原爆投下直後の懸命の救護活動からすべてが始まった被爆者医療。現在はかかりつけ医や被爆者団体、ソーシャルワーカー、行政がその現場を重層的に支える。一方で研究機関である放影研(南区)、広島大原爆放射線医科学研究所(同)は、放射線が人体に与える影響について調査研究を重ねる。

 臨床と研究の両面での「被爆地の蓄積」は、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故、99年の東海村臨界事故で医療支援として生かされた。福島第1原発事故をめぐっても、期待を一身に受ける。

 一方で、今なお医療に絡む課題があるのも事実だ。

 病気が原爆によるものだと認められれば医療特別手当が受給できる原爆症認定制度は、申請却下を不服とする提訴が絶えない。2003年に始まった集団訴訟では、福島でクローズアップされている「内部被曝(ひばく)」が国と被爆者の間で争点となった。低線量被曝や内部被曝の影響について未解明部分が多いからだ。

 また放射性物質を含む「黒い雨」を浴びながら、国の指定地域からはずれた場所にいた人たちは「被爆者」と認められないまま高齢化している。在外被爆者援護は格差是正が進むが、国内とは違って医療費助成の上限額が設けられたままだ。

 ヒロシマと同じ轍(てつ)を踏まぬよう、今フクシマでできることを提言する。それは試行錯誤を重ねてきたゆえの被爆地の責務である。


原医研

先端科学活用し健康調査

 「広島の経験から得た知識を伝えることで、皆さんの不安を和らげたい」。2日、福島県伊達市の掛田小体育館。広島大原医研の神谷研二所長(60)は保護者ら約80人に語りかけた。

 福島第1原発事故後、福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーと、県立医科大の副学長に請われた。保護者への講演会や同大の医療体制づくりに奔走し、週の半分以上を福島県で過ごす。原医研発足50年の年。ヒロシマの医療の「顔」として活躍する。

 原医研がフクシマで期待されているのは、世界有数の放射線障害の研究拠点だからだ。もともと被爆者の放射線障害を科学的に解明するため、1961年に設置された。神谷所長の専門も放射線障害医学。77年に広島大医学部を卒業し、原医研の助手や教授を歴任した。がんが発症する仕組みの研究を続け、2001年に13代所長に就任した。

 その翌年には、ゲノム(全遺伝情報)科学に重点を置く組織再編に踏みきった。がんや白血病が起きるメカニズムを遺伝子レベルで解明できれば、最新の治療法や予防法の開発につながるとの狙いがあったという。

 今、約45人の研究者を抱え、研究分野は多岐にわたる。原爆投下後の「黒い雨」が降ったエリアの解析も注目を集める研究の一つ。そのノウハウは、福島第1原発事故によって広範囲に及んだ土壌汚染の調査に活用されている。

 福島の原発事故は収束のめどが立たず、周辺住民は前例のない長期間、低線量被曝にさらされている。「県民の健康影響を明らかにするためには、原医研の強みである先端科学の研究が欠かせない」。50年の蓄積をフル活用する意向だ。


原対協会長 真田幸三医師に聞く

福島でも心強い存在に

 ヒロシマの医療を、どうフクシマで生かすのか。その歴史とともに、原対協会長の真田幸三医師(80)に聞いた。

 ―広島の医師たちが現地入りする意義は。
 福島第1原発事故を受け、ただちに広島から医師が派遣された。目に見えず、臭いもしないのが放射線。専門知識がなければ、医療関係者でさえ不安を感じる。

 広島の専門家は、被爆者医療の経験に加え、チェルノブイリ原発事故(1986年)など世界の核被害を調査、研究してきた。その蓄積があるからこそ、福島でも放射線量を正しく評価し、アドバイスできる。現地では、心強く思ってもらっているようだ。

 ―原爆投下直後、広島の医師たちはどのように活躍したのですか。
 戦後当初は広島の被爆者医療も困難な時代が続いた。原爆を落とし、日本を占領統治していた米国は「原爆の放射線は問題がない」と繰り返し、生き残った被爆者は無視に近い扱いをされた。これに疑問や憤りを感じたのが開業医だった原田東岷、於保(おほ)源作(げんさく)たち。原爆症患者に寄り添い、研究を重ねた。

 そして彼らの熱意が地元政治家や市長を動かし、53年の原対協設立や、57年の原爆医療法制定につながった。米国が南太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験(54年)で第五福竜丸が被曝し、広島、長崎以外の人も放射線の恐怖を感じ始めていたというのも背景にある。

  ―被爆者とどう向き合ってきましたか。
 私自身は広島医科大(現広島大医学部)を卒業した55年から、外科の勤務医や開業医として数千人の被爆者を診療した。爆風で飛び散ったガラス片が体内に残っている人や、皮膚が盛り上がるケロイド障害を負った女性に接すると、あらためて原爆被害のむごさを感じた。治療もさることながら体験をじっくり聞き、被爆者の心に思いを重ねた。

 また広島の医師は広島だけで活躍したわけではない。海外に住む被爆者にも目を向け、朝鮮半島や北米などの在外被爆者の健診をしてきた。チェルノブイリ原発事故をきっかけに、91年設立した放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)は今も海外からの研修医受け入れや、海外への医師派遣などを担っている。

 ―政府は福島の人たちに今後、何をするべきですか。
 被爆者援護の方法が参考になるだろう。被爆者健康手帳のような制度をつくるべきだ。無料の定期健診を始め、何らかの症状が出れば、健康管理手当などの給付をしなければならない。原対協のように、患者と医師をつなぐ組織も必要だ。

 転勤や転職などで福島を離れる人への継続フォローも忘れてはならない。広島は「被爆者はどこにいても被爆者」と訴えてきた。政府は海外を含めてどこに移り住んでも、無料健診などの恩恵を受けられるような仕組みをつくるべきだろう。

さなだ・こうぞう
 1931年広島県向原町(現安芸高田市)生まれ。外科医。66年広島市西区に医院開設。広島市医師会長を経て、98年に広島県医師会長に就任。6年間の在任中は核戦争防止国際医師会議(IPPNW)日本支部長も務めた。2005年から現職。


広島で活躍した主な医師たち

重藤文夫さん(しげとう・ふみお)
 広島赤十字病院の副院長に赴任して間もなく、爆心地から約1.2キロの広島駅前で被爆した。広島原爆病院の設立に奔走し、1956年、初代院長に就いた。引退までの約30年間で診療した被爆者は10万人を超え、「慈父」と慕われた。82年、79歳で死去。

蜂谷道彦さん(はちや・みちひこ)
 爆心地から1.4キロの自宅で被爆。全身血まみれになりながら、院長を務めていた広島逓信病院に駆けつけ、若い医師を指揮して被爆者の治療を続けた。原爆の残忍さを医師の視点でつづった「ヒロシマ日記」(1955年)は世界各国で翻訳、出版された。80年、76歳で死去。

原田東岷さん(はらだ・とうみん)
 軍医として終戦を迎えた。広島に帰った1946年以降、被爆者医療に当たり、ケロイドなど原爆後遺症の治療、研究に努めた。65年、広島市西区に国際平和交流施設ワールド・フレンドシップ・センターを開設し理事長に就任。99年、87歳で死去。

松坂義正さん(まつさか・よしまさ)
 原対協設立の中心となり、自らも副会長を務めた。爆心地から1.2キロの自宅で被爆し、負傷をおして治療・救護に奔走した。原爆医療法ができると原爆症の申請を審査する旧厚生省の原爆医療審議会委員に就任。被爆者の立場から発言する姿勢を貫いた。79年、91歳で死去。


<被爆者医療と援護の歴史>

1945年 8月 米国が広島、長崎に原爆投下
       9月 原爆影響調査の日米合同調査団が発足
1946年 8月 広島市が市内8カ所に原爆症の医療無料相談所開設
1947年 3月 米国が原爆傷害調査委員会(ABCC)を広島赤十字病院内に設置
1950年10月 国勢調査の付帯調査として、全国被爆生存者調査
1951年 1月 ABCCが胎内被爆児調査を開始
1952年 4月 対日講和条約発効で米軍の日本占領が終了。プレスコードも解除
1953年 1月 広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)発足(56年4月、任意団体から財団法人に。名称
          も「広島原爆障害対策協議会」となる)
1954年 3月 米国が南太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で日本の第五福竜丸が被曝
1955年 5月 原爆の熱線で、顔などにケロイド障害などを負った女性25人が治療のため渡米
       9月 広島逓信病院の蜂谷道彦院長が原爆の残忍さをつづった「ヒロシマ日記」を出版
      10月 広島で被爆した佐々木禎子さんが亜急性骨髄性白血病のため12歳で死去
1956年 9月 広島原爆病院が、広島赤十字病院の構内で開院式
      12月 原対協が原爆症治療患者と検査を受けた人に、健康手帳を交付して健康管理と治療促進すること
          を決める
1957年 4月 原爆医療法が施行。被爆者健康手帳の交付、認定疾病への医療費給付などを盛り込んだ
1961年 4月 広島大に原爆放射能医学研究所(現・原爆放射線医科学研究所)が発足▽原対協が広島市に原
          爆被爆者福祉センターを開所。被爆者の健康管理、職業訓練、生活相談に当たる
1965年 6月 原爆小頭症の子どもを持つ親の会「きのこ会」が発会
1966年 7月 「胎内被爆者、被爆二世を守る会」が広島市で発足
1967年 7月 韓国原爆被害者援護協会が発足。在外被爆者の組織は米国(71年)やブラジル(84年)でも設
          立される
       8月 国が原爆小頭症を「近距離早期胎内被爆症候群」として原爆医療法の認定疾病に加える
1968年 9月 原爆被爆者特別措置法が施行。特別手当や健康管理手当、介護手当を創設した
1970年 4月 最初の広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」が広島市に開所
1972年 6月 広島県被団協が、被爆者健康手帳交付に必要な「証人捜し運動」を進める方針を決定
      10月 広島県が初の被爆2世実態調査を、爆心地から2キロ以内を対象に絞って調査開始を決定
1973年 8月 広島市が独自事業として被爆2世の健康診断を始める
1975年 4月 日米対等運営の財団法人「放射線影響研究所」が開所式。ABCCの研究、調査を引き継ぐ
1977年 3月 広島県医師会と放射線影響研究所が共同で第1回在米被爆者健診
1980年12月 核戦争防止国際医師会議(IPPNW)設立
1986年 4月 旧ソ連のチェルノブイリ原発で事故
1988年 4月 広島原爆病院と広島赤十字病院が合併し「広島赤十字・原爆病院」に改称
       8月 広島県、広島市の「黒い雨に関する専門家会議」が初会合
1991年 4月 放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE=ハイケア)設立
      12月 福島第1原発で働き、慢性骨髄性白血病で亡くなった作業員に労災認定
1995年 7月 被爆者援護法が施行
1999年 9月 茨城県東海村の核燃料加工会社JCOで臨界事故。住民たち667人が被曝し、作業員2人が死亡
      10月 JCO事故を受け、住民の被曝線量調査や健康相談に当たるため放影研、広島大原医研、HICARE
          の医師、技師らが東海村に
2003年 3月 被爆者援護法の健康管理手当の受給権は海外に居住した場合は喪失する、と規定した「402号通
          達」を厚労省が廃止
       4月 原爆症認定集団訴訟が始まる
2004年 3月 広島大が西日本ブロックの「地域三次被ばく医療機関」に指定される
2006年 5月 放影研や広島赤十字・原爆病院など広島市内にある被爆者医療の拠点施設の連携強化を話し
          合う広島県医師会の「被爆医療関連施設懇話会」が初会合
2007年11月 最高裁が「402号通達」を「違法」とし、韓国人元徴用工の被爆者への賠償を国に命じる判決が
          確定
2008年 4月 原爆症認定集団訴訟の連敗を受け、厚労省が原爆症認定基準を緩和。がんなどは一定条件で
          「積極認定」
      12月 海外からの被爆者健康手帳の申請を認める改正被爆者援護法が施行
2009年 6月 原爆症認定基準を再び緩和し、「積極認定」の対象に放射線起因性が認められる肝機能障害と
          甲状腺機能低下症を追加
2010年 4月 在外被爆者の原爆症認定申請の「来日要件」を撤廃
2011年 3月 福島第1原発事故
       6月 福島第1原発事故を受け、福島県による全県民200万人余りを対象とする健康調査の先行調
          査が始まった

(2011年7月26日朝刊掲載)

年別アーカイブ