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社説・コラム

『論』 原爆開発と日本 「過去の幻」で済むのか

■論説委員・岩崎誠

 草むした石垣を登ると、背丈の倍ほどあるコンクリートの残骸が目に入ってきた。福島県南部の石川町に足を運び、日本近現代の秘史を伝える現場に立った。

 秘史とは「ニ号研究」と呼ばれた第2次世界大戦中の原爆開発計画のことだ。推し進めたのは悪化する戦局を打開したい陸軍と、いま何かと話題の理化学研究所。希少鉱物の宝庫として名高い内陸の地に、原爆材料のウラン採掘先として白羽の矢が立ったのは知る人ぞ知る歴史的事実である。

 一見しただけでは何か分からない遺構は、掘り出すウラン鉱石から不要成分を取り除く選鉱場跡という。「当時の記憶をとどめるのはここだけですね」。案内してくれた町文化財保護審議会委員の橋本悦雄さん(65)は言う。会社経営の傍ら20年以上にわたり原爆開発と地域の関わりを調査してきた。

 成果を町教委などが出版した分厚い資料集「ペグマタイト(巨晶花こう岩)の記憶」にまとめたばかりだ。ひもとくと、地域挙げてウラン鉱の採掘に協力した様子が分かる。旧制石川中の生徒たちが、学徒動員によって厳しい作業に従事した逸話にも驚かされる。

 だが現実には必要なウラン鉱の調達にはもともと程遠かった。それ以前に日本の科学力が追いつかず、計画自体が終戦を前に頓挫してしまう。そんな幻の原爆開発の実像は戦後さまざまに語られてきたが、地元として向き合う動きはほとんどなかったという。タブー視した側面もあったのだろう。再び光が当たったのは3年前、50キロ余り離れた福島第1原発で事故が起きたのがきっかけである。

 負の歴史に触れられたくない、という声がくすぶる中で「何があったのかを正確に残したい」と出版にこぎつけた橋本さんの熱意には頭が下がる。仮に原爆が完成していたとすれば、日本がためらいなく使っていたことは想像に難くない。その意味でも、しっかり語り継ぐべきテーマであろう。

 戦時下の国民がいかに原爆に期待していたか。ノンフィクション作家保阪正康氏の著書「日本の原爆」などにも詳しい。極秘にしたはずの情報があちこちで公然と語られ、軍部が意図的に漏らして戦意高揚に役立てたふしすらあるという。研究を主導した理研の仁科芳雄博士をはじめ、携わった科学者たちが早い段階で「無理」と口をそろえていたにもかかわらず。

 現に終戦の日まで、ウラン採掘のために学徒動員された一人も「マッチ箱一つで普通の数千倍も威力のある爆弾の材料になる」と激励されたことを証言している。広島・長崎の惨禍を経験する前の日本人は、いわば「原爆神話」に陥っていたのかもしれない。

 核兵器廃絶を訴え、非核三原則を掲げる日本。こうした経緯を過去のものだと片付けていいのか。核を持て、という極論がここにきて横行してきた感がある。

 例えば2月の都知事選で予想を上回る61万票を獲得し、新党結成も視野に入れる元航空幕僚長の田母神俊雄氏である。「日本核武装計画」と題する著書を手にした。

 中国や北朝鮮の核の脅威に対抗し、対米依存から自立するためにも核兵器が必要だ、とする自説を展開している。将来は核拡散防止条約(NPT)脱退や自前の核兵器開発に踏み切るシナリオまで示すが、現実的とは思えない。

 とはいえ過去に核武装論を唱えた政治家や評論家に比べれば、若い世代にじわじわ浸透しつつあるという指摘もある。とすれば決して見過ごせないことだ。

 むろん安倍政権は非核三原則の堅持を表明している。一方で「戦後レジームからの脱却」を唱え、先の大戦を歴代政権ほど反省しているようには見えない。国際社会からすれば、日本国内のもろもろの空気と核爆弾5千発分に相当する44トンの余剰プルトニウムを抱える実態を、結びつけて考えたくもなろう。同盟国の米国にも日本の核武装への疑念は根強いと聞く。

 科学が再び暴走し、かの石川町の遺構が「果たせなかった原爆開発の夢を伝える場所」と曲解される時代など考えたくもない。時計の針をヒロシマ以前に逆戻りさせることは許されない。

(2014年4月10日朝刊掲載)

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