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連載・特集

緑地帯 出会いは風に乗って 津谷静子 <7>

 「知ってほしい」「分かってほしい」という切実な願いに応えるには―。模索する中で、2004年8月6日の平和記念式典に合わせて10人の毒ガス被害者をイランから招いた。

 原爆で草木も生えない、というイメージだったという彼ら。「式典に世界中の人々が集っている」と驚いていた。被爆者と対話する機会もあった。苦悩に満ちた証言を、毒ガス被害に遭った自らの体験と重ね、心が通じ合うように感じたという。被爆者が「平和の尊さを発信し続ける」と語るのを聞いて、毒ガス被害者にも新たな決意が芽生えたようだった。瀬戸内海の歴史と自然にも触れ、被害者の目に輝きが見られた。

 毎夏、毒ガス被害者を広島に招くようになった。ある年の参加者の中に、イラン北部の村に住むチマンという18歳の少女がいた。毒ガス弾で兄弟は犠牲となり、父と生後6カ月のチマンが生き残った。後遺症は重く、声が出にくい。目もよく見えない。「イラニアンさだこ」と呼ばれていた。

 広島を訪れた直後の彼女はじっと一点を見詰め、無表情だった。平和記念式典に参加し、宮島観光を終えた日の夕食の時、初めて笑顔を見せてくれた。「チマンが笑った。チマンが笑った」と、全員が驚いた。みんなの心が感動と喜びに包まれた。

 彼女は広島をたつ時こう言った。「生まれて初めて分かってもらえた気がした。イランに帰って、もう一度学校に行きます」。わたしたちが届けているのは「心の薬」だと、このとき気付いた。(NPO法人モーストの会理事長=広島市)

(2014年2月6日朝刊掲載)

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