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連載・特集

海自呉地方隊60年 第2部 時代の目撃者 <5> 海外実任務(1991、92年) 機雷処理派遣で世論二分

 掃海母艦はやせと掃海艇ゆりしまが、海上自衛隊呉基地Fバースをゆっくりと離れた。1991年4月26日午後。目的地はペルシャ湾だ。笑顔や涙で見送る隊員家族。市民団体は基地周辺で「派兵反対」と声を上げた。

 イラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争後、政府は海自隊の艦艇6隻計511人からなる掃海部隊の派遣を決めた。戦争でイラク軍は、多国籍軍の侵攻を防ぐため大量の機雷を敷設していた。

 当時は自衛隊海外派遣の根拠となる法はなかったため、自衛隊法99条「機雷等の除去」の範囲を公海にまで広げた。「金は出すが人は出さない」。国際社会の日本への風当たりが強まったことが背景にあった。訓練を除くと自衛隊として初の海外実任務。世論は割れた。

 「海自隊による機雷爆破処理第1号は、5キロ離れた洋上で見守った。かすかに水柱が上がった瞬間、みんなで拍手したよ」。補給艦ときわに乗っていた熊倉正造さん(69)=江田島市=は振り返る。

 部隊は6月5日から米英など8カ国と共同で任務に当たった。3カ月間、クウェートやサウジアラビア沖で34個を処分、10月に帰国した。隊員の献身的な働きぶりに、国際的な評価も好意的なものに変わっていった。

 翌92年6月、国連平和維持活動(PKO)協力法が成立。9月に内戦後のカンボジア支援のため、呉基地から陸自隊員たちとともに補給艦とわだなど3隻が出発した。(小島正和)

ペルシャ湾 黒煙と酷暑

元ペルシャ湾掃海派遣部隊指揮官 落合畯(たおさ)さん(74)=神奈川県鎌倉市

 自衛隊始まって以来の任務。万が一、隊員に死者が出たら、二度と海外派遣はないだろうと緊張した。

 出港の日、早く出たかったよ。洋上なら周囲の騒がしさから解放される。市民団体はボートに乗って抗議し、上空には報道機関のヘリコプターが飛んでいた。物々しかった。

 ペルシャ湾の空は黒煙でかすんでいた。湾岸戦争でイラク軍がクウェートで260もの油井を破壊した。気温40~50度。砂漠から時折、パウダー状の砂嵐がやってくる。過酷な環境で、隊員はよく任務をこなしてくれた。

 まず海域の機雷をソナーで念入りに調査した。触雷と隣り合わせで緊張の連続だった。出航前「時間優先より安全優先」を厳命されていた。功を焦るな、ということ。隊員には「ゆっくりやろうや」と呼び掛けた。

 最初の爆破処理は任務開始から2週間後。海自隊にとって歴史的な瞬間だった。

 軍隊色を極力薄めた派遣だったから、部隊には護衛艦もヘリコプターもない。こんな丸腰の「海軍」は前代未聞と外国の軍人に驚かれた。

 1カ月後、整備と休養のため寄港したバーレーンで、商社勤務の日本人から熱烈な歓待を受けた。湾岸戦争前後、日本は人的な国際貢献をしないのかという声が現地で上がり、肩身の狭い思いをしていたそうだ。

 10月に帰国。翌年にはあっという間にPKO協力法が成立した。世論の変化を痛感した。あれから20年余り。自衛隊の海外任務はすっかりルーティンワークになったね。

(2014年4月5日朝刊掲載)

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