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社説・コラム

『論』 死者と向き合う沖縄 痛みが生き方を支えた

■論説副主幹・佐田尾信作

 米軍が沖縄本島に上陸したのは69年前の4月である。わずか80日で推計15万人の沖縄県民が犠牲になった。その地上戦の実相を多くの国民に知らしめた第一人者は亡き仲宗根政善(せいぜん)氏だろう。

 ロングセラー「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」の著者。沖縄師範女子部と県立第一高女から南風原陸軍病院に動員された「ひめゆり学徒隊」の引率教師だった。戦後、女子学徒隊の悲劇が映画などを通じて虚実ないまぜに伝えられることに強い危機感を抱き、日記「ひめゆりの塔の記」を晩年までつづって公開していた。

 仲宗根氏の同僚教師に、戦後山口大教授を務めた西平(にしひら)英夫氏がいた。7年前、糸満市のひめゆり平和祈念資料館を訪ね、直筆資料を見せてもらう機会があった。

 陣中日誌をつけていた西平氏は米軍の収容所で学徒一人一人の戦闘状況をまとめ、1946年には当時の文部省に報告した。これが後年、軍命に従って戦死したという援護補償の根拠になる。「西平ファイル」とでもいう扱いで保管されてきたのもうなずける。

 元中国放送プロデューサーの松永英美さんは西平氏の長女である。那覇市内の国民学校に通い、米軍上陸の前年に本土へ疎開する。その2カ月後、学童疎開船の対馬丸に乗った同級生たちは魚雷攻撃で暗い海に没した。

 戦後、郷里の奈良に生きて帰った西平氏は人が変わったようになっていた。松永さんは「父は沖縄で卑劣なことをしたのでは」と疑うが、やがて心境が理解できた。「艦砲射撃で多くの娘さんを死なせたのに」と生き残った自分を責めていた。話を聞こうとしたところ、45歳の若さで事故死する。

 その後、松永さんにとって沖縄が心の中の、遠い土地だったのは想像に難くない。少女たちに「殉国」を説いただろう父を思うと恐ろしく、戦場に残された友のことなど考えてもみなかった自分を恥じた。72年、父の遺稿が「ひめゆり学徒隊の青春」として出版される。その原稿を読んでもらうため、意を決してやっと父の教え子たちに会うことができた。

 「そしてどうしたら沖縄とつながっていけるか、考えたんですよ」。その道がジャーナリストとして反戦平和のテーマにこだわること、足元で原爆小頭症や大久野島(竹原市)の毒ガス後遺症などの問題を掘り起こすことだった。 79歳の松永さんは2月、広島経済大生の沖縄戦跡を歩く旅に同行し、ひめゆり平和祈念資料館長を務める元学徒の本村つるさんに会った。「この島と父にさよならを言う」はずが、88歳の彼女に「私の97歳の祝いにはぜひ」と誘われた。土地の風習「カジマヤー」である。それまで元気でいなきゃ、と気を取り直した。

 来年は広島・長崎の被爆とともに沖縄戦も70年の節目。メディアは体験者に当時の記憶を尋ね、翻って今の問題に論評を求めることが多い。半面、その間の「70年」は抜け落ちてしまいがちだ。生き残った人は死者のまなざしを常に感じながら戦後を歩んできたはずだ。死者への負い目や痛みとともにあったと言ってもいい。

 沖縄戦研究者の北村毅氏は論集「死者たちの戦後誌」(御茶の水書房)で戦後史ならぬ「戦死後」という言葉を提示する。それは死者をめぐる生者の戦後の営みを意味し、沖縄の戦跡はそのアーカイブズ(記録の場所)だという。

 沖縄戦終結後、初めて戦死者の名前が刻まれた碑は「ひめゆりの塔」だと伝わる。仲宗根氏の悔恨の念が刻まれたといえよう。広島市の琉球方言研究者、生塩(おしお)睦子さんは本土復帰前の60年代に琉球大に留学し、その人となりに接した。師の心の内を今こう察する。

 「人間が人間でなくなる戦争の悲惨さ。それを胸の奥深く刻み込み、『ひめゆり』にかかわる出来事を自分の痛みとして後世に伝えたいと先生は思われたんです」

 北村氏の言を借りれば、戦死者に「その後」はない。その空白や不在に意味を持たせるのは死者を知る生者だ。だが、その生者もいずれ、いなくなる日が来る。そんな時代に戦争の「語り」はどんな形をとるのだろう。広島も、いつかは考えなければなるまい。

(2014年4月17日朝刊掲載)

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