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社説・コラム

憲法 解釈変更を問う 企画制作会社社長・渡部久仁子さん

殺し合う国に陥る恐れ

低い意識 国民にも責任

 米国による広島、長崎への原爆投下もあった戦争を経験した国で、どうして集団的自衛権の行使容認論が出るのか、私には全く理解できない。一部の政治家たちが意見を交わしているだけで、主権者の国民は置き去りにされている。

 広島の被爆3世。原爆をテーマにした絵本を翻訳し、各国に届けているNPO法人の活動に参加してきた。根っこにあるのは、母方の祖母の被爆体験だ。

 祖母は、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院、広島市中区)の看護学生だった。「あの日」は、敷地内の寄宿舎で患者の食事を作っている最中だった。患者の救護に追われ、がれきの下敷きになった同級生を助けられなかったそうだ。84歳になった祖母は、この時の罪悪感をいまだに引きずっている。

 漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さん(2012年12月に73歳で死去)と親交があった。中沢さんを追ったドキュメンタリー映画「はだしのゲンが見たヒロシマ」(11年)の制作プロデューサーを務めた。

 12年5月に西区で開いた「はだしのゲンが見たヒロシマ」の上映会で、中沢さんが語った言葉が胸に残っている。中高生から「平和とは何か」と問われ、中沢さんは「自由にものが言えること」と答えた。

 私が3歳の時に亡くなった父方の祖父は被爆こそ免れたものの、中国を中心に複数回、戦場に行ったと聞いている。当時は戦場に行きたくなくても「ノー」とは言えない。集団的自衛権の行使容認は、祖父母と同じようなつらい体験を国民に強いる恐れがある。私は行使については「嫌だ」とはっきり言いたい。理由はシンプル。直接的にも間接的にも人を殺したくないし、殺されたくないから。

 ベトナム戦争で戦った韓国人の体験談を聞いたことがある。最前線では、動く物に対して反射的に銃を撃つのだそうだ。相手が誰だろうと、何だろうと関係ない。本能で殺し合う。行使容認は、日本がそういう状況に陥る恐れを意味すると思う。「国際社会での役割を果たすため」などの容認派の説明は納得できない。

 行使容認に向けた急速な動きについて「国民の意識の低さも無関係ではない」とみる。

 閣議決定で憲法解釈の変更が強行されかねない今の状況は、私を含め、この問題にあまり関心を持ってこなかった国民の側にも責任がある。中沢さんは自身の半生や漫画を通し、戦争や核兵器の悲惨さを訴え続けた。今も実体験を懸命に伝えている被爆者がいる。

 しかし、私たち国民の多くは、平和の構築について考えることを人ごとのように思い、「思考停止」になっていなかったか。大いに反省したい。

 一部の政治家たちによる勝手な話し合いだけで、行使が容認されて本当にいいのか。自分の家族や友人が戦場に行かざるを得なくなる社会が来ることを、みんなで想像しなければ。そして「嫌だ」「認めたくない」という気持ちがあるのならば、それを共有し、広めていくことが大切だと思う。今からでも。(聞き手は松本恭治)

(2014年4月18日朝刊掲載)

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