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栗原貞子さんの直筆論文発見 「核文明から非核文明へ」 原爆詩人の思想裏付け 原発増設の70年代 脱核エネ訴え

 被爆体験から平和を訴え続けた広島市出身の原爆詩人栗原貞子さん(1913~2005年)が、被爆30年の1975年春、「核文明から非核文明へ」と題し、原子力の「平和利用」に反対した論文の直筆原稿が見つかった。関係者は「日本に原発が稼働し始めた当初から、あらゆる核に反対の姿勢を貫いていた栗原さんの思想を裏付ける貴重な資料」としている。(森田裕美)

 論文は、中国新聞社が75年、市民に募った懸賞論文「昭和50年代への提言」に応募した原稿。当時、編集局長だった元広島市長の平岡敬さん(86)=西区=が、自宅に保管していた。

 400字詰め原稿用紙19枚。少し癖のある素朴な筆致で核エネルギーからの脱却を訴えている。70年代は国内に次々と原発が造られ始めた頃。広島の近隣でも中国電力島根原発が74年に稼働、愛媛県の四国電力伊方原発も73年に着工した。74年には原発の立地支援などを定めた電源3法も成立。そうした背景が、栗原さんを執筆に突き動かした一因とも考えられる。

 論文では冒頭、原爆詩人峠三吉(1917~53年)が被爆翌年に書いた復興案「一九六五年のヒロシマ」に触れ、ユートピアを描いた当時の峠を「夢見る抒情(じょじょう)詩人だった」と指摘。原発建設を急ぐ政策に「原爆の材料であるプルトニユウムをつくり出すのが目的とされていることや、先にのべた産業界内部にある日本核武装化の意図、核防条約(核拡散防止条約)の批准が行われないことも切り離して考えられないだろう」と主張している。

 被爆者を含む国民に対しても「将来に楽観的で、気が付いたときにはその時々の政治情勢に振り回され、衰弱し、底辺では戦前戦中と変わらなかったのではないか」と指摘。最後は「人類は呪われた核エネルギーに決別し、核文明から非核文明への決断の年として昭和50年を新しい文明への入口(いりぐち)の年としたいものである」と締めくくる。

 懸賞論文には291編の応募があり、特選1編と入選・佳作各5編が決まった。栗原さんは選外だった。平岡さんは「論文としては未熟な点もあったが、内容が心に引っ掛かり、処分しなかった」と振り返る。「公害病が社会問題化し、世間は二酸化炭素を出さないクリーンエネルギーとして原子力をもてはやしていた時代。福島第1原発事故後の今に通じる内容に先見性を感じる」と話す。

 栗原さんは78年の著書「核・天皇・被爆者」(三一書房)に、この論文を再構成した論考を載せている。広島文学資料保全の会の池田正彦事務局長(67)は「栗原さんが早くからあらゆる核に反対していたのは知られているが、軍事利用と平和利用が表裏一体である点を明確に指摘し、原発反対の主張を展開した著作はこれ以前には見当たらない。一貫性を裏付ける意義深い資料」としている。

 平岡さんは、同会を通じて、直筆原稿を広島女学院大(東区)の「栗原貞子記念平和文庫」に寄贈する。

栗原貞子さん
 1913年広島市安佐北区生まれ。広島県立可部高等女学校在学中から詩や短歌の創作を始めた。45年8月6日、爆心地から約4キロ北の自宅で被爆し、その後入市。広島貯金支局(現中区)の地下室で産気づいた女性の赤ちゃんを重傷の助産師が取り上げた様子を「生ましめんかな」として発表。代表作となった。占領軍のプレスコード下でも、原爆を特集した同人誌や戦中戦後の反戦詩を集めた詩集を出版。70年代後半からは原水爆禁止運動や被爆体験の証言活動をしながら、ヒロシマの加害の側面にも向き合い、核時代に生きる人間を主題にした詩を発表し続けた。2005年、92歳で死去。

(2014年4月15日朝刊掲載)

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