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社説・コラム

社説 憲法の解釈変更 砂川判決 論拠にならぬ

 集団的自衛権の行使容認へ、安倍晋三首相は憲法解釈の見直しを加速させたいようだ。首相の諮問機関、安保法制懇座長代理の北岡伸一氏も先日、本紙の取材に対し「(安全保障に関する)さまざまな法律に欠陥がある。根っこをたどると誤った憲法解釈に行き着く」と答えた。

 集団的自衛権行使を認めてこなかった歴代政権の見解を事実上否定したいのだろう。だが、憲法改正ではなく解釈見直しで乗り切ろうとするのは「一強政治」のおごりにしか映らない。

 最近も、高村正彦自民党副総裁が55年前の砂川事件最高裁判決を持ち出してきた。これもまた、首をかしげざるを得ない。

 米軍基地拡張に反対するデモ隊の一部が基地内に立ち入ったとして、刑事特別法違反で裁かれた事件である。一審は米軍駐留自体を憲法違反と断じて無罪を言い渡したが、異例の「跳躍上告」を受けた最高裁は駐留は合憲とする逆転判決を下した。

 この最高裁判決は「自国の存立を全うするために必要な自衛の措置を取りうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」と記している。ここに「必要最小限度」の集団的自衛権行使も含まれる、というのが高村氏の論法のようだ。

 だが、この裁判では駐留米軍が憲法9条で禁じられた戦力かどうかが問われた。自衛隊や自衛権が争点ではなく、まして集団的自衛権という概念が当時あったのか疑問である。時代背景が違うと言わざるを得ない。

 しかも判決が、安保条約という高度な政治に司法の審査権はなじまない、と言及した点は見過ごせない。さらに最高裁長官が米高官と密談し、裁判官の評議の内容に立ち入るような事前説明をしていたことも近年、米公文書から明らかになった。

 この国の司法権は憲法76条に定めがある。裁判官は良心に従って職権を行い、憲法と法律にのみ拘束されるという。

 最高裁の評議に外圧があったとすれば、憲法と法律以外の何ものかに拘束されたことになろう。この国の在り方を根本から揺るがすような解釈変更の根拠にするのなら、「切り貼り」ではなく論点を全て洗い出して国民に説明すべきだろう。

 わが国ではこれまで、内閣法制局の見解に沿って歴代政権が積み重ね、定着してきた憲法判断がある。憲法9条と自衛権に関していえば、「集団的自衛権は自衛のための必要最小限度の実力行使の範囲を超える」(2004年、秋山収法制局長官)という見解に代表されよう。

 だが今、法制局を意に沿うものに変え、時の政権の判断で憲法解釈を変える前例がつくられようとしているのではないか。

 憲法とは何か、あらためて問い直さざるを得ない。「信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく猜疑(さいぎ)にもとづいて建設せられる」。独立宣言を起草した第3代米大統領トーマス・ジェファソンの演説だ。疑いのまなざしこそが権力を縛る。それを成文化したのが憲法であろう。

 だが今起きているのは、権力の手を縛る道具を権力がいじる矛盾だ。残念ながら、信頼より猜疑の方が求められよう。

 きょうは憲法記念日。憲法を守るのは国民よりもまず権力の側である、という立憲主義の基本を私たちは思い起こしたい。

(2014年5月3日朝刊掲載)

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