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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 河田和子さん―衝撃の被害 感情「空白」

河田和子(かわだ・かずこ)さん(82)=広島市南区

喪失感や悲しさ 年を追って強くなる

 河田(旧姓渡辺)和子さん(82)は被爆当時13歳、多感な年頃(としごろ)のはずでした。しかし、人間とは思えない被爆者の姿を見た時も、ようやく母ヨネさん=当時(51)=と再会した時も、行方不明の父和三さんを捜(さが)していた時も怖(こわ)さも悲しさも喜びも感じませんでした。焼かれている多くの遺体が「プスー」という音とともに腹部が割れ、オレンジ色の腸がむくむくと出てきたのも、ただ黙(だま)って見ていたのです。感情のない「空白」の時。「あまりに衝撃的(しょうげきてき)だったからでしょうか」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 広島県立広島第一高等女学校(現皆実高)2年だった河田さんは、あの日、学徒動員先だった高須(たかす)(現広島市西区)の航空機部品工場(爆心地から約2・5キロ)にいました。戦況(せんきょう)が劣勢(れっせい)になり、あまり仕事はありません。警戒(けいかい)警報が解除され、同級生と海へ行こうと準備していました。

 飛行機の音に気付き、東側の窓から空をのぞくとB29の飛行機雲が見えました。窓辺を離(はな)れた瞬間(しゅんかん)、オレンジ色の光が目に飛(と)び込(こ)んできました。机の下に隠れ、大きなけがもないまま同級生と高須の山に逃げました。

 大手町(現中区、爆心地から約500メートル)の自宅に帰ろうとしましたが、引率の教諭(きょうゆ)から「市中は火の海だ」と言われて行けません。夕方になり、疎開先(そかいさき)にしていた広島県地御前(じごぜん)村(現廿日市市)の父の知人の家に歩いて帰りました。

 同じように歩いて逃(に)げる人々は、体中の皮膚(ひふ)がむけています。唇(くちびる)が前に飛び出た姿は、人間の形相ではありません。「今だと腰(こし)が抜(ぬ)けるほど驚(おどろ)くだろうが、怖いと思わなかった」

 地御前村の知人の家で、荷物を取りに来ていた母と再会。やっと会えたのに「助かったという喜びも覚えていない」と言います。

 翌日、母たちと自宅に行き、焼(や)け跡(あと)を掘(ほ)り起(お)こしましたが、父も伯父(おじ)も見つかりません。南観音町(現西区)の長女の家を訪れていた伯母の消息も不明のまま。1週間、市中を捜しましたが、見つかりませんでした。

 父、伯父と思われる遺骨が出てきたのは1カ月以上たってから。9月17日の枕崎(まくらざき)台風が通り過ぎた後、自宅の玄関(げんかん)があった所に2体分の骨が見つかったのです。「誰(だれ)の骨でもいい、ここにあったんだから」と持って帰って弔(とむら)いました。

 9月下旬、のどや腸から血が出始めました。髪(かみ)の毛も抜(ぬ)けました。薬がなく、母が毎日ドクダミを煎(せん)じて飲ませてくれました。3カ月ほどすると元気になり、翌年には本格的に復学できました。「ドクダミのおかげ。ドクダミの白い花を見ると命を感じる」とほおを緩(ゆる)めます。

 家族を奪われた喪失(そうしつ)感や悲しさは、後から出てきました。年を追って強くなり、8月6日には平和記念公園(中区)に行けません。「黙(もく)とうのサイレンを聞くのがつらくて耐えられないんです」

 1957年、博夫さん(86)と結婚(けっこん)。2人の子育てに区切りのついた50代からボランティアを始めました。今も続ける知的障害者の支援(しえん)活動で米国を訪問。「米国を憎(にく)んでも前に進まない。命を大切にすることが私の平和活動。憎しみを乗(の)り越(こ)え、世界の人と交流を深めたい」と話します。(山本祐司)



◆私たち10代の感想

行動起こすことが大切

 「原爆を『悲しかった』だけで終わらせない。まだまだやりたい事がある」。河田さんは、自身が参加する知的障害者の社会活動を支援(しえん)するボランティアについて、とてもうれしそうに話していました。行動力を見習いたいです。これからは私たちの世代がさまざまな行動を起こしていくことが大切です。(高1・鼻岡舞子)

憎しみ超えた先に平和

 「国が違(ちが)っても、人間と人間の思いや祈(いの)りは一緒(いっしょ)。違うのは言葉だけ」という話が印象に残りました。米国は憎(にく)いけれど受け入れている、受け入れないと前に進めないと聞き、憎しみを超(こ)えた先に平和があるのだと実感しました。人と人とのつながりを大切にし、互(たが)いに憎み合わないように生きていきたいです。(高1・福嶋華奈)

心までも奪う恐ろしさ

 原爆が河田さんの心に与(あた)えた衝撃(しょうげき)は大きく、被爆直後、目の前の光景にも父の死に対しても、何も感じ取ることができなかったそうです。戦後しばらくして、父のいない喪失(そうしつ)感に深く苦しんだといいます。家族だけでなく、感情までも奪(うば)ってしまう原爆の恐(おそ)ろしさを伝えなければならないと強く感じました。(高1・松尾敢太郎)

(2014年5月12日朝刊掲載

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